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何が埋められないのか(ことばの足音を追いかける〈1〉)

アートプロジェクトの現場で出会った、気配を残しては去っていくことばたち。どんな姿をしているのか。どんな道を進んでいくのか。その姿をちょっと追いかけてみるシリーズ、はじめます。

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緊急事態宣言が解除されたとはいえ、対面でのコミュニケーションに慎重にならざるを得ないいま。アートプロジェクトの現場では改めて「会いに行く」一歩の踏み出し方が問われています。

東京アートポイント計画と連動して行われている被災地支援事業「Art Support Tohoku-Tokyo」で展開している「ラジオ下神白」は、福島県の復興団地を訪問しながら、団地住民さんのお話を聞き、そのエピソードや思い出の曲をラジオ風にまとめてお届けしているプロジェクトで、2017年より続いています。

訪問することから現地と関係性をつくってきたこのプロジェクトでは、まさにどうやって「会いに行く」かを考え中。まずはオンラインからかな。会うための基準をどうつくっていこうか。そんなミーティングのなか、「ラジオ下神白」ディレクターのアサダワタルさんがつぶやいた言葉がありました。

”何が埋められないのか。
決して、「埋められた」という感覚になることはないんだろうな。”

オンラインの便利なサービスができ、感染防止にかかる基準ができ、その対策ができ…、これから段々「会えなかった」溝は浅くなって、「会っても大丈夫」になっていくのかもしれません。しかし、心から「大丈夫だ」と思えることはないのではないだろうか、ずっと抱えないといけない何かがあるのではないか、という予感もしているのです。

そんな予感はしつつも、それでも我々は、そこに溝があったこと、溝を乗り越えたことに、いつしか慣れてしまうのでしょうか。まるで、アスファルトの下に地面があることを忘れてしまうように。蛇行する道の下には川が流れていたことを忘れてしまうように。

溝を乗り越えたい。しかし、そこに溝があること、乗り越えるためにどんな一歩を歩んだかは忘れてはいけない。見えなくなった地面や川の存在に向き合い続けるような手段のひとつがアートプロジェクトであると信じて。溝を埋めていくのではなく、溝の存在と向き合いながら、そのときできるかたちの「会いに行く」ことを模索中です。