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海の青より、空の青 第27話

粟立つ想い

 ようやく氷の山を全て崩しきると、その向こう側に広がる景色を目にすることができた。
 ただしその時、僕はすっかりと疲れ切ってしまっていた。
 小学生だったかつて、山の陰になるせいで半日しか陽が射さない村の住人が長い時間を掛け、頑張って山の土や石を削り一日中陽の光が得られるようになったという話を読んだことがある。
 僕たちはまさに今、その村の住人のような心境であった。
 当時の僕は、埋め立てられてしまった湖に住んでいた魚たちの安否が気になって仕方がなかったが、今は彼女が身体を冷やしていないかが心配でならない。
「志帆ちゃんどう? いけそう?」
 ブルーハワイのシロップで舌を青く染めた僕の問い掛けに、彼女は弱々しく首を左右に振って答えた。
「貸して」
 力なく差し出されたカップに目を落とすと、そこにはまだ半分以上も氷が残されていた。
 僕はそれを丼ぶりの飯でも搔き込むかように、一気に胃袋へと流し込む。
 強烈な冷気とともにいちごシロップの甘い香りが鼻孔に抜ける。
 十数秒後、激しい頭痛と胸痛に襲われもんどり打ちそうになった。
 しかし、気力だけでなんとか堪えながら、いかにも平然といった顔で空になった容器を彼女に呈示した。
「夏生くんすごい!」
 称賛の言葉に手を振り応え、空になったカップを捨てに行くため立ち上がる。
 彼女に背を向けた途端、耐えに耐えていた痛みが形相に反映されたのだろう。
 途中ですれ違った小学生の女の子がすぐ背後で「っひ!」と声をあげるのが聞こえた。

 かき氷のダメージが回復するのを待ちながら、昨日の午後に話しきれなかった雑談の続きに花を咲かせた。
 それは学校にいる恐い先生の話だったり、最近買ったCDの話だったりと、本当に他愛もないことばかりだった。
 ただ、僕にとっては最高に楽しい時間だったし、それは彼女もきっと同じだったと思う。
 でなければ浴衣の袖で顔を隠してまで笑ったりはしないはずだ。
「あ、ごめん夏生くん。私そろそろ帰らないと」
 すぐ近くにあるチョコバナナ屋の軒先にぶら下げられた時計を見て、彼女は申し訳無さそうな顔をしてそう言った。
 まだ八時を少し回ったところだったが、中学一年生の女の子の門限を考えれば、いくら特別な日だからといっても当然だろう。
「車で来てたみたいだけど、帰りも家の人が迎えに来てくれるの?」
「うん。お母さんが頃合いをみて電話しなさいって。あの、この辺に公衆電話ってあるかな?」
 頭の中に周辺の地図を展開してみたのだが、公衆電話はおろか自動販売機すら見つけることが出来なかった。
「ごめん思いつかない。でも電話だったらうちのを使えばいいよ。歩いて五分くらいだから」
「よかった! ありがとう!」

 広場を去る前に自分の分と彼女の分のりんご飴を買い、少しだけ早足で家へと向かう。
 車通りのない県道を渡ると、すぐに暗がりの坂道に差し掛かった。
 いつものように手のひらを上にして左手を差し出すと、彼女は熱いものにでも触れるかのように、そっと手を重ねてくる。
「夏生くんってやっぱり、ぜったい変わってるよ」
 その指摘に対する最適解を相変わらず持ち合わせていなかった僕はといえば、可能な限り有り体な返答でお茶を濁すしかなかった。
「そんなに変かな? いや、まあ変か」
 なにせ自覚があるくらいなのだから変なのだろう。
「ヘンだよ。だって、うちの学校にはいないもん」
「僕の学校にもいないよ。志帆ちゃんみたいな……かわいい女の子」
 普段の僕は、ただ思ったことをコピー機のように口から自動で出力するだけの男なのだが、いま言った言葉は彼女に伝えたい本心に他ならなかった。
 だとしても、やはりもう少し言い方というものがあるだろうに。
 なにせ僕たちはまだ中学一年なのだし、それよりも何よりも一昨日の夕方に知り合ったばかりだったのだから。
 今からでも『なんちゃって!』とでも言ったほうがいいのだろうか?
 でもなんか、それはそれで激しく嫌な気もする。
 そんな傍から見たらどうでもいいことに考えを巡らせていると、ふいに彼女が立ち止まり、手と手で繋がっている僕も必然的に動きを止めた。
「志帆ちゃん、どうしたの?」
「……うちの学校にもいないよ」
「え?」
「夏生くんみたいな……素敵な男の子」

 開け放たれたままになっていた玄関からそっと顔を差し入れ、蚊の羽音よりも細く小さな声で「ただぃま」と帰宅を告げる。
 下駄箱の上に置かれた電話を指で示そうとしたその時、彼女が突然「こんばんはー」と声を張り上げた。 
「はーい」という返事のあと、すぐに母が廊下の奥から小走りで出てくる。
「あら? 夏生、お友達?」
「はじめまして。志帆って言います。夏生くんと盆踊りに行っていたんですが、お電話を貸してもらいたくて」
 母はたったそれだけで概ねの状況を理解したようだった。
「ああ、はいはいどうぞ。志帆さん? ありがとね、うちの子のお守りをしてくれて」
 ニコニコしながら彼女に受話器を渡す母。
 頭を下げながらそれを受け取る彼女。
 頭の中で頭を抱える僕。
 廊下の奥から父たちの大きな笑い声が聞こえてきた。
 何ともいい気なものだ。

「近くまで母が迎えに来てくれるそうなので失礼します。夜分にお邪魔しました」
 彼女は身体の前に両手を揃えると丁寧にお辞儀をする。
「夏生、送ってってあげなさい」
 母に言われるまでもなくそうするつもりだったのだが、それに加えて今は一秒でも早く母と彼女を遠ざけたかった。
「志帆ちゃん、行こう」
 再び彼女の手を取ると、今し方上ってきたばかりの坂道を足元に気をつけながら下りていく。
「夏生くんのおうち、すごく楽しそうだね。お母さんも優しそうだったし」
 前半部分は概ね同意するが、後半はこのあと帰ってみなければわからない。

「あ、ここで大丈夫。お母さん、信号のところって言ってたから」
 すぐ向こうに見える青色の灯火はこのあたりでは唯一の信号機なので、場所はここで間違いないだろう。
「夏生くん。今日は本当にありがとうございました」
 彼女はそう言って、先ほどうちの母にしたように深くお辞儀をした。
 慌てて僕も「こちらこそ」とかしこまって頭を下げると、互いに顔を合わせてクスリと笑った。
 そうこうしているうちに、県道の奥から一台の車のヘッドライトが近づいてくるのが見えた。
 あれが多分、彼女の母親の車なのだろう。
「夏生くん!」
「志帆ちゃん!」
 同時にあげた声が夜の田舎にこだまする。
「ごめん、なに?」
 彼女に発言権を譲られて先に口を開いた。
「――明日。明日はどこに行こっか?」
 自身で発したその言葉が自分の耳に入ってくると、そのあまりの気恥ずかしさに首の後ろ側がゾクゾクと粟立つ。
 一瞬ではあったが逡巡の表情を見せた彼女だったが、薄いピンク色の唇をゆっくりと動かした。
「また、あの午後の海で」
 道路の反対側に止まった車の運転席から――暗くて顔はあまりよくは見えなかったが――彼女の母親と思しき女性が僕に向かって会釈をしてくれた。

 このあと僕は、彼女との関係を母に問い詰められることになるのだろうが、今はただ幸せな気持ちに胸を踊らせるがままでいた。
 車のテールランプが見えなくなるまでその場で見送ると、フワフワとした足取りで坂道を上り返す。
 中学一年の未成熟な心と身体に、一生色褪せることのない八月の夏の夜の思い出を詰め込んだままで。


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