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海の青より、空の青 第0話

【前日譚】少年と少女の青

「海と空は同じ青色なのに……それなのになんで、こんなにも色が違うんだろう?」

 それはこの世界に生を受けて五年たらずの少年にとってみれば、とてつもない難題であった。
 海の水にはより多くの青色の成分が溶け込んでいるから?
 だとしたら、空にはそれが少ないということだろうか?
 彼は数分のあいだ思考を巡らせたのちに、小さくため息をつくと砂の上に腰を下ろした。
 自身の経験や知識から正しい答えを導き出すことが困難であることを悟ったのかもしれない。
 足元に咲き乱れる小さく可憐な花たちに寄り添いながら、八月の海を吹き抜ける風を小さな身体に受け少年が佇んでいると、ふいに空を流れる白く大きな雲が太陽を覆い隠した。
 その途端に世界から急速に色が失われる。
 この惑星の表面積の七割以上を占める海だけが、白と黒に支配された仄暗い景色の中で、自らの圧倒的な質量を誇示するかのように青色をより濃くした。
 その押し黙ったような存在感は、大人であればきっと恐怖の感情すら覚えたことだろう。
 しかし、少年はその幼さ故か、それとも彼の眼前に広がる世界は依然として色に満ち溢れていたのか――それは定かではないが、この広い世界に唯一遺された紺碧の色彩に触れようと、波打ち際へと一歩を踏み出した。
 あと数歩で足が波に触れるというところまで進んだ、その時だった。
 風に乗って鈴の音が聞こえたような気がして、少年はその歩みを止める。
 次第に大きくなるその音は、今や彼のすぐ後ろにまで迫っていた。

 少年は振り返る。
 すると、そこには小さな鈴のついた麦わら帽子を被った少女が、ただ真っ直ぐに彼を見据えて立っていたのだった。
 その背格好からして、二人は同じくらいの年齢だろうか。
「こんにちは!」
 少女はそう言うと、白いワンピースの裾を風に靡かせながら少年のすぐ隣へと歩み寄ってくる。
「ここのうみはね、はいったらだめなんだよ! むかしうちのママのおねえさんがね、ここでおぼれてしんじゃったっんだって!」
 少女はすぐ目の前の波打ち際を指し示し、少しだけ悲しそうな表情を浮かべ見せた。
「……入らないでおくよ。ありがとう」
「どういたしまして!」
 少女はそれだけ言うとポケットから空色のシーグラスを取り出し、小さな掌にちょこんと乗せたそれを少年の前に差し出す。
「これあげる!」
「……いいの?」
「うん! !」
 少年はその言葉の意味を――恐らくは少女自身も――理解していなかったが、彼は彼女の目を見たままその宝物を受け取る。
「ありがとう。大事にするよ」
「うん! それね、おそらのいろみたいでしょ? わたし、うみのあおいいろよりもそらのあおいいろのほうがすきなの!」
「そうだね。僕も空の青のほうが好きだよ」
 互いに幼い笑みを浮かべたふたりは、どちらかともなくその視線を海の方向へと向ける。
「海も空も本当に青いね」
「うん! えのぐのあおみたいだね!」

 その時だった。
「志帆ちゃん、そろそろ帰りますよ」
 不意に背後から聞こえた大人の声に、少年は驚いて振り向く。
 そこには白い日傘を差した女性が立っており、その胸元には桃色のロンパースを着せられた赤ん坊がいだかれていた。
 女性は少年と目が合ったその途端、もとより大きな瞳をより一際に見開く。
 だが、それはほんの僅かな時間の出来事で、次の瞬間には白く細い手を自らの口元にあてると、少しおどけた口調でこう言った。
「あら? もしかしてあなた、うちの子のボーイフレンドかしら?」
 その言葉の意味を知っていた少女は顔を赤くし、少年は只々きょとんと目を丸くするだけだった。

「またね!」
 手を振り去っていく母子を見送りながら、少年は不思議な気持ちになっていた。
 それは今日この時初めて逢ったはずの少女と母親のことを、まるで昔から知っていたような、そんな懐かしさにも似たような得も言われぬ感情だった。
 いつの間にか海が凪いでいた。
 少年は手の内に握られたままになっていたシーグラスを人差し指と親指で掴むと、真夏の空に向かってかざす。
 それは本当に空と同じ色をしており、まるで指の間に何も挟まれていないようですらあった。

『わたし、うみのあおいいろよりもそらのあおいいろのほうがすきなの』

 少女の言葉を思い出した少年は、空色のそれを大事にポケットの奥底へとしまい込むと、自分以外に誰も居なくなった夏の海をあとにした。

 このあと彼は、親に黙って一人で海に行ったことを大いに咎められることになるのだが、今はただ幸せな気持ちに胸を踊らせるがままでいた。
 遥か地平線まで続く畑の、その直中を真っ直ぐに伸びる赤土の道を、少年は覚えたばかりの下手くそなスキップで駆けて行く。
 その小さな背中に八月の海と空の、ふたつの青を背負いながら。


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