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海の青より、空の青 第42話

それより僕と

 カレーをたらふく食べた後、俺の苦労の跡が在々ありありと残る調理台やコンロを片付けてからバンガローへと引き上げた。
 一息つこうと二段ベッドに腰を下ろしたその途端、激しい睡魔が襲いかかってくる。
 それは考えるまでもなく、四人分の労働を一人で行った結果であった。
 このまま横になることができればいいのだが、あと三十分もすればキャンプファイヤーと肝試しが控えているのでそういう訳にもいかなかった。
 いっその事一足先に、集合場所である管理棟前に行ってしまおうか。
 そう思い立ち、気力を振り絞って重い腰を上げるとバンガローをあとにした。

 日没後の山道を歩く経験というのは新鮮ではあったが、だからといってまったく気持ちのいいものではなかった。
 それもこれも半日前に担任に聞いたあの話のせいなのだが、それをせがんだのは他でもない自分であった。
 持参した懐中電灯で足元を照らしながら歩く。
 妙に後ろが気になり、そのたびに幾度となく振り返ってしまう。
 こんなことならば女子のバンガローに寄って美沙を誘えばよかったかもしれない。
 と、そんな考えに至ったことが、我ながら少し情けなく感じる。
 いつかの夏の夜、あっちゃんとともに墓地の最奥を目指した時も、今この時と同じように何度も振り返り、ちょっとした物音や気配に肝を冷やしたことを思い出す。
 心配して迎えに来てくれた祖母の足を『この世ならざる者』のそれだと勘違いして、あの時は本当にもう駄目だと思った。
 家に戻って風呂に入っていると、従姉の闖入ちんにゅうで再び大変な目に遭ったんだった。
 あの夜、祖母に買ってもらったりんご飴はいつ食べたのだったか。

 恐怖心はいつしか懐古ノスタルジアで上書きされ、気がつけばすぐ目の前に公民館のような管理棟のシルエットが浮かび上がっていた。
 そこにはお喋りに勤しむ数人の生徒と、何をするわけでもなく後ろ手を組んで身体を左右に振る生徒指導教諭の姿があった。
 恐らくは暇を持て余していたのであろう彼は、俺の姿を認めるとすぐにこちらに駆け寄って来る。
 なりは見まごうことなくオッサンなのに、その走り方はまるで十代の少女のようであった。

「夏生よ。二人の嫁さんとはその後上手くやってるのかい?」
「……さあ。最近会ってないのでなんとも」
 すぐに余計なことを言ってしまったことに気付いたのだが、その時にはもう後の祭りだった。
「コイツぅ!」
 まるで同級生のようなノリの彼に腕を小突かれた俺は、わざとらしく乾いた笑みを浮かべた。
「先生がお前くらいの時にはなあ――」
 突如スイッチが入ったようで、彼は自分が学生だった頃の思い出話を垂れ流し始める。
 それは例えるなら、何年も前に卒業した見ず知らずの部活のOBが気まぐれに訪ねてきて、唐突に始まる自分語りのような――言ってしまえば、とてつもなく退屈で無駄な時間であった。

 適当に相槌を打って話を聞いていると「それはまあ、あれなんだが」と急ハンドルで話題を切り替え、やけに真面目な顔をしてこちらに向き直ると彼は言葉を続けた。
「葉山は少し、な。そういうところ――誰かに依存するようなところが中学の頃からあったそうなんだ」
 ああ、そういう話か。
「ええ。それは知ってます」
 知っているというか、付き合っているうちに気がついていた。
「そうか。だったら、うん。真面目に付き合うならそれで良いと思う、先生は。でももしそうじゃないなら距離の取り方をちゃんと考えるようにしなさい。彼女のためにも、お前のためにもな」
「――わかりました」
 彼は面倒な人間だが、本来はとてもいい先生なのだ。
「それはそうと先生いま暇なんだよ。少し一緒に駐車場でも走らないか?」
 彼はいい先生なのだが、その実とても面倒な人間だった。

 集合時間が目前に迫った頃になり、管理棟前の駐車場はいつの間にか黒山の人だかりで溢れかえっていた。
 先生とのフリーランニングを終えた俺は、息を弾ませながら見知った顔ぶれの集団の中に入り込む。
 ほどなくして管理棟裏にあるグラウンドに行くように指示が出され、黒山たちはゾロゾロと大移動を開始した。
 到着したグラウンドの中心には、まるで何かのモニュメントのように二メートルを超えんばかりの高さに材木が組まれたキャンプファイヤーが鎮座しており、それを目にした生徒たちの上げる感嘆の声が、真っ暗な森の木々に反響して聞こえてくる。
 キャンプ場――じゃなかった、施設の職員が手にした長い棒の先端に巻きつけられた布に火が着けられ、木の枠組みの間に真っ直ぐ差し込まれる。
 木組みは一瞬のうちに燃え上がると大きな炎をあげた。

 夜空をオレンジ色に焦がす炎を眺めながら、配給されたカップアイスを木のスプーンで穿ほじくり返し口に運んでいると、さも当然のように俺のすぐ隣に陣取っていた美沙が「あ~ん」と声を出して口を大きく開いてみせた。
 その小さな舌の上にスプーンに乗る限界を少し突破した大量の氷菓を、機関車に石炭を投入するかの如く放り込む。 
 彼女は一瞬驚いた顔をしたあと一生懸命に咀嚼し、ゴクリと喉を鳴らして一気に飲み込んだ。
 そして三秒後には、こめかみを押さえたまま動かなくなってしまった。
 かつての夏の夜、かの豪華客船を沈没せしめた氷山の如き山盛りのかき氷を平らげた経験のあった俺は、目の前の彼女の苦しみが文字通り痛いほどわかるのだが、そのあまりに滑稽な姿に声を出して笑ってしまった。

 そうこうしていると、何の説明もなく管理棟の方からオクラホマミキサーが大音量で流れ始めた。
 恐らくは余興のダンスタイムか何かなのだろうが、二百人からの生徒は誰一人それ乗ろうともせずにお喋りに興じたり、まるで小学生のように追い掛けっこをしたりと、企画してくれた職員の人たちに申し訳ないように思えた。

『距離の取り方をちゃんと考えるようにしなさい。彼女のためにもお前のためにも』

 不意に先ほどの先生の言葉が思い出された。
 俺は彼女のことを性別を超えた友達だと思っているのだが、果たして彼女も俺のことをそう思っていてくれているのだろうか?
 それとも、ただ手頃な依存先なのだろうか?
(どうでもいいか、そんなこと)
 その形がどうであれ俺は彼女のことが好きだったし、彼女もきっと俺のことを好いてくれているのだろうから。

「葉山のお嬢さん。よかったら一緒に踊りませんか?」
「え……あ、うん! よろこんで!」
 俺と彼女は手と手を取り合うと、燃え盛る炎の前へと歩み出る。
「美沙はダンスの経験とかってある?」
「ううん、ぜんぜん! ナツオは?」
「当然あるよ。……盆踊りだけど」 
 決して音質が良いとはいえないスピーカーから流れる音楽に合わせ、如何にもそれっぽく背筋を伸ばして踊り出す。
 すぐにそこら中から冷やかしが飛んでくるが、俺と美沙はそういった声を無視できる生まれ持った才能がある者同士なのだった。
 もしかしたら俺と彼女は、自分たちが思っているよりもずっと健全な人間なのかもしれない。
 そうでなければ高校一年生という多感かつナイーブな時期にして、火中の栗を素手で拾うようなこんな暴挙に自ら打って出るようなことはしないだろう。
「いや、待てよ?」
 逆に不健全であるが故ということはないだろうか?
「……まあ、それもどっちでもいっか」
「え? ナツオなんかいった?」
「美沙はいま楽しい?」
「うん! すっごく楽しい!」

 実際のところ俺たち二人の姿はといえば、周囲からもさぞ楽しげに見えていたようだった。
 当初は傍観者だった学友たちであったが、しばらくすると一人、また一人と踊りに加わり、いつの間にかその場にいた半分以上の生徒が楽しそうに手足を動かしていた。
「私も混ぜてもらってもいいっけ?」
 暗がりからやってきて遠慮がち声を掛けてきた人物に、即座に「もちろん!」と答えた。
 俺ではなく、美沙が。
 美沙は俺の元から離れると、朱音の手を取って踊り始める。
「えっ? あ、ちょっと……葉山さん?」
 彼女あかねの『混ぜて』はそういう意味ではなかったような気もしたが、とにかく楽しそうな彼女みさに免じて俺は観覧者へと転身する。
 困惑の表情を浮かべて俺に助けの目を向けていた朱音も、そのうちに美沙と向き合って笑顔を見せていた。
 彼女らはおそらく初対面か、そうでなくてもそれに近いはずだった。
 ただ、あの二人はどことなく似ている雰囲気があったので、これをきっかけに良い友達になるかもしれない。

 お役御免となった俺は踊りの輪から外れ広場の隅へと移動すると、公園の噴水で遊ぶ我が子を見る父親のような心境で彼女らを見守った。
 キャンプファイヤーの炎の動きに合わせ、沢山の長い影たちがその形や大きさを変えながら、ユラユラと気持ちよさそうに揺れている。
 それを見ていると、あの夏の夜祭のことを思い出して急に胸が痛くなった。
 きっとこれは治ることのない傷なのだろう。
 逆に言えば、もしこの痛みを感じなくなる時が来るとすれば、それは俺が別の人間になってしまったということの証左なのだと思う。
 今の俺はまだ、あの時の俺だった。
 それがとても嬉しくて、ふたたび彼女たちのいる踊りの輪の中へと駆け込んだ。


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