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海の青より、空の青 第15話

夏の残滓

 すっかりと汗だくになってしまっていた甚平を一秒でも早く脱ぎたくて、家に戻ると風呂場へ直行した
 風呂桶に水をなみなみと溜め、みそぎでもするかのように頭の上から被る。
 それを二度三度繰り返し、身体の火照りを十分に取ったあと、今度は勢いよく湯船へと飛び込んだ。
「――熱っ!」
 出掛ける前に予め沸かしてあったと思しき風呂の湯は、祖母の機転から普段よりも随分と高い温度設定がされていたようだった。
 入った時と同じか、それ以上の勢いで湯船から飛び出す。
 時間にして二秒かそこらの入浴だったにも拘らず、首から下がゆで蛸のように真っ赤になっていた。
 すぐさまシャワーの冷水に身を晒したのだが、今度は井戸水の冷たさに「ひゅっ!」と情けない声を上げてしまう。
 これではトマトの湯剥きだ。

 湯船を水で埋めるべく蛇口を捻ると、背の方向にある脱衣所に人が入ってくる気配を感じた。
 振り向くと型ガラスの戸の向こう側に、不鮮明な黒い浴衣のシルエットが見える。
 筍の皮でも剥くようにスルッと浴衣を脱いだ彼女は、続けてカラカラと音を立てながら浴室の引き戸を開けた。
「ああああ! あっちゃん! ちょっとまって!!」
 タオルで身体の前を隠した従姉の姿を認めたのと同時に、身体を回転させながら湯船に飛び込む。
 全開に開かれ滝の様相を呈している水道のお陰で、辛うじて釜茹刑から逃れた僕は「待ってって言ったじゃん!」と、背を向けたままで彼女に猛抗議する。
「だってナツくん、待ってたら先に出ちゃったでしょ?」
 それはまあそうなのだが、そもそも一緒に風呂に入らなければいいだけの話ではないのだろうか?
 クレームを悠々と受け流した彼女は、ルンルンと楽しげに鼻歌を歌いながら、シャワーで身体を洗い流しているようだった。

 しばらくして、ようやく湯が適温になった頃、背後からプラスティック製の風呂椅子がキュっと鳴る音が聞こえ、次の瞬間、胸元まであった湯が首のすぐ下にまで水位を増した。
 それらから導き出されたのは、彼女が湯船に入ってきたということだった。
「ナツくん、もしかして怒ってる?」
 怒っているというよりは、待機依頼を無視されたことに拗ねていただけなのだが、その違いを説明するのはさすがにバカバカしい。
「ナツくん?」
 悲しそうな声色に少しだけ心が痛んだが、元々の怒りの度合いが低かったことが逆に僕を意固地にし、引くに引けない状況へと追い込まれていた。

 互いに沈黙したままで一分ほどが過ぎた。
 ほんのついさっき、『引くに引けない』などと言っていた僕だが、この張り詰めたような空気と湯にあてられ、早くも音を上げそうになっていた。
 これはもう、いろいろな意味で潮時かもしれない。
『あっちゃん、ちゃんと反省してくれた?』と、予めに用意したセリフを口にしようとした、その時だった。
 背中に恐ろしく柔らかなものが触れ、それと同時に縄で縛り上げるかのように彼女が両腕が僕の身体を背後から羽交い締めにした。
 その瞬間、僕の心臓は踏切の警報機の倍の速度で血液を全身に送り出し、視界までもが赤く染まったように感じた。
「ナツくん」
 耳のすぐ後ろ数センチメートルのところで、彼女が僕の名前を呼んだ。
「はいっ!」
 仮にこれが授業中の挙手であれば、担任は僕のことを大いに褒めてくれただろう。
 そのくらい元気いっぱいに返事をしてしまう。
「ごめんね?」
 随分と凄みのある『ごめんね』が、今度は反対の耳から聞こえた。
 背中から彼女の鼓動が伝わってくるのだから、僕のそれも彼女に伝わってしまっているのだろう。
 甘美なる束縛から逃れようと、試しに――軽くではあるが――体を左右に揺すってみるも、背中に当たる柔らかなものがゆっくりと形を変えながら動きに追従してくるのが感じられるだけだった。
 そして僕は悟ったのだった。
 これは詰みであると。

 諦念にも似た気持ちで身動きせずにいると、やがて僕を物理的にも精神的にも拘束していた細い腕がゆっくりと解かれる。
 背から彼女が離れたのと同時に、先ほどまでの温かさとは違った湯のそれを背中に感じた。
「ナツくん。先に出るから、あとで一緒にさっき買ったわたあめ食べよ?」
 彼女はそれだけ言うと、入ってきた時と同じようにカラカラと戸の音を立て、その余韻だけを残して静かに浴室を出ていった。
 僕はその日初めて、女性の怖さというものを知った――ような気がした。


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