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海の青より、空の青 第22話

日陰に咲く花

 夏生という名前のくせに、僕は暑さが苦手だった。
 そもそも夏生まれですらなく誕生月は四月だったため、今までの人生で何度も『名前負け』などと謂れのない誹謗や中傷も受けてきた。
 冬の寒さであれば限界まで服を着込むことでどうとでもなるのだが、夏の暑さを前にしては、仮にこの国の法律が改正され全裸で過ごすことが許容されたとて耐え難いものがある。
 ただ、夏が嫌いかといえばまったくそんなことはなく、むしろ四季の中で一番好きな季節は夏なのだから、自分でも少しややこしいように思う。
 それはそうと、僕の夏好きの原因は毎年お盆に訪れている、この田舎の町のお陰かもしれない。
 今もこうして暑さにぶうたれてはいるが、海から吹いてくる風に混じる汐の香りは好きだし、祖父母の家の縁側で食べるスイカも大好物だった。

 母に車で送ってもらわなかったことを後悔し始めた頃、ようやく目的地であるリカーショップコジマが目前にまで迫ってきた。
 コンビニほどのサイズ感の平屋の店舗の前に、色とりどりの自動販売機が十台近くも並んでいる光景は、まるで最前線に築かれた要塞のようにも見えるが、今の僕にとっては砂漠の中のオアシスになってくれるに違いない。

 ガラスの引き戸を開けた瞬間、まさに期待の通りのキンキンに冷えた空気が体の前面に直撃する。
「いらっしゃい」
 店の奥にある座敷から笑顔の可愛らしい年配の女店主が、身体を半分だけ出して出迎えてくれた。
 レジ奥の壁に掛けられている時計の針は二時三十分を指しており、概ね予想通りの時間に到着したことになる。
 酒店なだけあって置かれている商品のほとんどはアルコールやつまみの類だったが、レジの近くに少ないながらも一般食料品や菓子の類も売られていた。
 その中には僕の大好きな『スケトウダラのすり身をシート状に薄く伸ばして衣をつけ揚げた駄菓子』も置いてあったが、今は昼飯を食べたばかりだったので『スケトウダラのすり身をシート状に薄く伸ばして衣をつけ揚げた駄菓子』に食指が動くようなこともなかった。
 結局、ペットボトルのコーラを一本だけ購入して店から出ると、自販機の列の隅に設置されていたベンチに腰を下ろしてそれをがぶ飲みする。
 大人がビールを呷ったあとのように、わざと大袈裟に「プハーッ」と声に出しながら首を振り、温度差でビショビショに汗を掻いたボトルを首筋に当てて約束の時間が訪れるのを待つ。

 十分くらい経っだだろうか。
 ペットボトルから落ちた水滴がコンクリートに吸い込まれる様子を眺めていると、視界の隅に麻製のサンダルを履いた白く小さなつま先が映り込んだ。
 顔を上げると果たしてそこには、浅葱色のノースリーブワンピースを身にまとった待ち人の姿があった。
 わずかに頬を紅潮させている様からすると、遠くから僕の姿を認めて走ってきてくれたのかもしれない。
「おまたせしました。ごめんね、待たせちゃったかな?」
「ぜんぜん待ってないよ」
 僕が勝手に早く到着していただけで、なんなら彼女も約束よりは十分近く早く来ていたのだから、これは待ったうちには入らない。
 ペットボトルに少しだけ残っていた黒い液体を飲み干すと、ベンチの脇にあったゴミ箱に空のボトルを投げ込んでから立ち上がる。
「それじゃ夏生くん、いこっか?」
 先に歩き出した彼女を半歩後ろから追従しながら、今からどこに向かうのか尋ねた。
「ここのすぐ近くにね、お話をするのに丁度いいところがあるの」

 彼女に連れられて来たのは、待ち合わせ場所の酒店からほんの数分歩いたところにある学校だった。
 校庭の広さや部活動をする人影が見えないことから、おそらくは中学校ではなく小学校なのだろう。
 二階建ての校舎の背後に小さな山を背負ったここは、県道からたった二○○メートル離れだだけにして、まるで高原の避暑地のような清涼な空気を湛えていた。
 目隠しの施されたフェンスに囲まれたプールのすぐ脇にある木陰の小さなブランコに並んで腰を下ろす。
「来てくれてよかった」
 彼女はブランコを小さく漕ぎながらそう言った。
「約束したんだから来るに決まってるよ」
「……うん。でも、ありがとう」
 当たり前のことを言っただけなのだが、彼女はとても嬉しそうな顔をしてくれる。
「夏生くんは毎年こっちに来てるの?」
「うん。お盆と正月には必ず。志帆ちゃんちは?」
 少し大きくブランコを漕ぎながら顔だけを彼女の方へと向ける。
「私は両親ともこの辺りだから。お盆はいつもうちに親戚が集まって、それで夜中まで騒いでって感じ……かな」
「それうちの大人おやたちと同じだ」
 僕の言葉に彼女は口を抑えて笑い出した。

 その後も昨日の海であったことだったり、待ち合わせ場所に至るまでに太陽に灼かれて死を覚悟したことなど四方山話に花を咲かせた。
 志帆ちゃんは大人しそうなその見た目に反してよく笑う子で、僕はそんな彼女の笑顔をもっと見たいがために、普段はそう饒舌でもない口を一生懸命に動かし続けた。
 学年が同じだからか、僕と彼女の共通の話題は性別の違いを考慮しても考慮せずともとても多かった。
 それに彼女もロマンには親とよく行っていたそうで、無くなってしまったことを僕と同じく悲しんでいるのを知り、誰にも理解されないだろうと諦めていた悲しみを共有することができ、それが何よりも嬉しく思えた。
 僕は小学校でも中学校でもクラスの女子とこんなに話すことはなかったので、あっちゃん以外の女の子とこれほど仲良くなったのは初めてのことだった。
 もし昨日、何となしに海に行くことをしなかったら。
 もし昨日、彼女が麦わら帽子を風に飛ばされなかったら。
 いま僕と彼女がこうしてここにいることはなかった。
 そう考えると、出会えたことがちょっとした奇跡のようにすら感じられた。
 いや、実際に奇跡なんだと思う。

 ほんの先ほどこの場所に着いたばかりだと思っていたのに、気がつくと校庭の鉄棒が地面に長い影を落としていた。
 ツクツクボウシに紛れて聞こえるヒグラシの鳴き声が、彼女との楽しい時間の終わりを予感させる。
 その時、僕たち二人しかいない校庭に不意にチャイムの音が鳴り響く。
「あ、もうこんな時間なんだ……」
 ここからだと校舎の壁に付けられているであろう時計は見えなかったので、きっと彼女はチャイムの鳴る時間を知っていたのだろう。
 彼女は最後にブランコを大きくひと漕ぎすると、その勢いを利用してふわりと地面に舞い降りる。
 その拍子にワンピースのスカートの裾が少しだけめくれてしまい、僕は慌てて目をそらすと、彼女とは対象的にブランコを足で止めて静かに立ち上がった。
「夏生くん今日はありがとう。ものすごく楽しかった」
 振り返ってそう言った彼女は、今日一番の笑顔を咲かせて見せてくれた。
 その瞬間、僕は心臓を鷲掴みにされたように胸が痛くなり、同時に彼女との時間が終わってしまうことが酷く悲しく残酷なことのように思えた。
 そして誰に教えられたわけでもないのだが、僕はその理由をすぐに理解した。

 ほんのわずかな間でしかなかったが、世界から音と時間が失われたよう感じた。
 僕は彼女の顔をまっすぐに見つめ、彼女もまた僕の顔をまじろぎひとつせずに覗き込んでいる。
 止まってしまった時計の針を動かすために――いや。
 また明日も彼女と会いたいがために、僕は意を決して腹の底から声を出した。
「志帆ちゃん、あの! 明日の夜お寺で盆踊りがあるのって知ってる?」
 たぶん僕は今、滑稽なほどに真剣な顔をしていることだろう。
 彼女はきのう浜辺で出会った時のように、少しだけ不安そうな声で「うん」と答えた。
「もし都合が悪くなければだけど、もしよかったら……その。一緒に行きたいんだ」
 まるでドラマのワンシーンを演じているような自分に、心の内にいるもうひとりの僕が『お前は相変わらず言葉の選び方が下手だな』と嘲笑う。
 一瞬の間を置いてから彼女は小さく頷き、再び笑顔を咲かせて口を開いた。
「うん、わかった。何があっても必ず行くから」
 それは昨日、僕が彼女に言った台詞だった。


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