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海の青より、空の青 第32話

こんなにも

 二つの影が繋がっていたのはたった数秒でしかなかったが、それは僕にとって永遠と言ってもいいような、とてつもなく長い時間に感じた。
 唇に触れていた柔らかな感触が無くなると同時に、いつの間にか消え去っていた波の音がふたたび戻ってくる。

 恐る恐る瞼を開くと、半歩ほど離れた場所でこちらをじっと見つる彼女と目が合った。
 その表情はといえば、微笑んでいるわけでもなければ恥ずかしげというわけでもなく、かといって無表情だったかといえばそんなこともない。
 強いていえば、何か大きな決意をした人間がするような意思の強さを、その大きな瞳の奥底に宿しているように見えた。
 喩えようのない不安に襲われ、思わず目を閉じてしまいそうなるが、本当に閉ざしたほうがよかったのは視覚ではなく聴覚だった。
「夏生くん、ごめんなさい。もう……会えないかもしれない」
「……え?」
 彼女はいま、何と言ったのだったか?
 もう会えないと、そんなふうに聞こえたような気がする。
 それは僕が明日、この町を去ってしまうことを言っているのだろうか?
 もしそうだとすれば、僕は今日このあとにでも顧問に問い合わせて部活動を辞める覚悟がある。
 そうすれば明日も明後日も、少なくとも夏休みが終わるまではいつでも会えるはずだ。
 ただ彼女の表情とその物言いから、それがそんな単純な理由でないことを、僕は薄々感づいてしまっていた。
「志帆ちゃん、ごめん。志帆ちゃんの言ったことの意味、わからないんだけど」
 結果、こんなにも情けない言葉を喉の奥から弱々しく吐き出すことが精一杯だった。
「あのね、夏生くん。私ね――」

 夜の帳が下りきった砂浜で、僕はたったひとり海に向かい立ち尽くしていた。
 彼女がこの場所を去ってから、一体どのくらいの時間が流れただろう。
 青褐あおかち色の空に浮かぶ雲は昼間よりもその量を増し、今や月すらもその影に隠そうとしていた。
 そういえば昼過ぎに家を出た時、『ちょっと出掛けてくる』としか言っていなかった。
 きっと今ごろ親たちには、さぞ心配を掛けてしまっていることだろう。
 だが、そんな些細なことはどうでもよかった。

『明日、私もここからいなくなるの』
 彼女はそう言うと無理に笑顔を作ってみせた。
 瞬きどころか呼吸をすることさえ忘れ、その言葉の意味を理解しようと努力する。
 しかし、そのために必要な情報を持ち合わせていなかった僕は、結局は彼女の説明を待つ他なかった。

 今を去ること四年前。
 彼女の父親は仕事中の事故で亡くなったのだそうだ。
 母親は突然の訃報に口も聞けないほどに憔悴し、ついには葬儀の途中で倒れてしまった。
 それから半年間、家事をすることすらままないまでに塞ぎ込んでしまっていた母親だったが、そんな最中、近所に住む幼馴染であり父親の親友でもあった男性が、足繁く母親の元を訪れては静かに、そして根気よく寄り添い励まし続けてくれた。

 一年と半後。
 ようやく――たまにではあるが――笑顔を見せるまでに回復した母親に、さらに二年後の今年の春、幼馴染の彼はプロボーズした。
 夫との思い出が詰まったこの地に留まっていることが、この上ない苦痛だと感じていた妻は、どこか知らない土地へと生活の拠点を移すことを条件にし、それをを受けた。
 そういうこと、だそうだ。

『だから……ごめんね』
 頬を涙で濡らした彼女はもう一度深々と頭を下げると、瑠璃色に染まる西の空の方向へと歩き出した。
 僕はその背中を追いかけようと一歩踏み出したところで、それが彼女の決意を踏みにじってしまうのではないかと思い留まり、この場に立ち尽くしたままその小さな背を見送った。
 それが正解だったのか間違いだったのかを、ただの黒い大質量でしかなくなった海を眺めながらずっと考えていたのだが、いくら時間を掛けてもその答えは出そうもなかった。

 さらに一時間も経った頃。
 ようやくこの場を離れることを決意した僕だったが、月明かりすらない砂浜に矢竹の通路を見つけることができず、強引に藪を突っ切って赤土の台地へと戻ると、まるで死人のような足取りで家へと帰った。

 真っ青な顔で手足を切り傷だらけにして戻ってきた僕の姿を見るなり、大人たちは何事かと矢継早に問い質したが、僕は下を向いたまま一言も口を利かないでいた。
 そのただならぬ雰囲気を察してくれたのか、彼ら彼女らは「とにかく無事でよかった」とだけ言い、それ以上は何も聞かないでくれた。

 祖母に勧められて風呂に入っていると、それは唐突にやってきた。
 彼女の背を追い掛けなかったことへの後悔。
 愛する人と二度と会うことができないことへの悲しみ。
 あまりに無力な自分という存在。
 それらすべてが激しい慟哭となり、怒涛のように押し寄せてくる。
 たった数日ではあったが彼女と過ごした日々や、その細く柔らかな指の感触を思い出すと、このまま胸が裂けて死んでしまうのではないかと真剣に思ったし、何ならそうなって欲しいとすら思った。
 もし今、まるで風に舞う紙飛行機のように夏の青空の下を彼女の麦わら帽子が舞った、あの瞬間に時間が戻ったなら。
 僕は決してそれを追い掛けなどしないだろう。
 こんなにも――こんなにも苦しい思いをするくらいなら。
 僕はもう、二度と人を好きになることなどしない。


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