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「対話する」がよく分からない私

こんばんは🌃青空です。
梅雨入り発表まだかなーと思うこの頃。梅雨入りしたかどうかを自分で決めちゃダメかな?なんて思ったり( ̄▽ ̄;)

「対話する、がよくわからない私」、と書くと、まるで、人の話を聞かない人間と思われそうですが、そういう意味ではなかったり(自分で言うのも変ですが)。

最近よく聞く、「対話」や「オープンダイアログ」。
私も一時は、「新しいことを知りたい!」、「対話の技術を上げたい!」、そんな思いから本を読んだり、イベントに行ったりもしていました。
コロナになり、イベントが少なくなったため、触れる機会はめっきり減ってしまいましたが。

それでも冷めない「対話」の魅力。
私は、本を読んだりした以上の知識があるわけではないので、「対話とはこうだ〜」と語れるものがあるわけではありません。
それでも、「対話」について書いてみようと思ったのは、その界隈で言われている「対話」がよくわからなくなったからです。

わからなくなったきっかけは、周囲に、「対話」という言葉を使う人(もしくは実践してる人)がたくさんいる一方で、「そもそも、この人、私の話を聞いてる?どこまで理解してる?」と思ってしまうことが多くなったからです。

実際にあった会話を例えるとしたら。
相手へ野球ボールを投げてみたら、その野球ボールに羽根が生えて、どこかへ飛んでいってしまった感じです。
つまり、話を受け止めてもらえていない状態。
それなのに、相手は、「私はあなたの話を聞いた。対話できたぜ。イェイ」という態度でいるのです。
私は、「対話」も、その人のことも、よくわからなくなりました。

またこんなケースもありました。
ある日、親しい人からLINEが来ました。私が「なんとかやっているよ」と返すと、相手から「そっか、忙しいんだね」と返ってきたことがありました。
私は、思わず、「忙しいかどうか、一言も言ってないのに、どうして決めつけるんだろう」とがっかりしてしまいました。

「対話」って、なんなんでしょう?

私が最近思うのは、「対話」ができているかいないか、が重要なのではなく、「人の話を聞くこと」、「その人の話を理解できているかどうか」が大切なのではないかということです。
それが前提になければ、「対話」のスタート地点にすら、立てていないのではないか、と思うのです。

でも、こうやって語るほど、また「対話」がわからなくなっていきます。
あくまで、こうして書いてきたことは、「青空が人と話す時に大切にしていることだから」です。他の人にあてはまるかはわかりません。「違う」と批判されるかもしれません。

それでも私は、わかるまで、疑問を問い続けます。
「対話する」って、とても簡単に使ってしまいがちだけど、そもそも「対話」って何?
生きていく中で、どれだけの会話が「対話」になってるんだろう。
言葉を大切にできているかどうか、相手を尊重できているかどうか、立ち止まらなければならない時がある。

そんなことを思う夜でした🌃

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