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「野球と政治の話はするな」は正しかった

「野球と政治の話はしないほうがいいですよ」
オフィスでその言葉を聞いた時、嫌だなと思った。みんなしたい話をすればいいじゃないか、と。
言った本人がガッツリ野球の話をしていたので、野球は大丈夫そうなのだが、問題は政治のほうである。こういう事だったのかと実感する出来事があった。

1か月前にこの記事を書いた。都知事選の後に石丸バッシングをするメディアを批判する内容だ。すると、普段ならコメントなんて付かない僕のnoteに複数人からコメントが来た。記事の感想ではなく、「あなたはなぜ石丸を支持するのか?」「石丸が何をした?」、そんな内容だった。
驚いたのはその長さで、note1本分くらいの長文が複数送られてきた。政治以外のどの話題で同じことが起きるだろう?

政治の話になった途端、会話ではなく「追及」が相当な熱量で始まる。
それぞれ支持する政治家が違ってもいいはずなのに、それを「矯正」しようとしてくる人たちがいる。
大谷翔平を応援する野球ファンを、ダルビッシュに矯正しようとする人はいない。でも石丸伸二を応援すると着ているユニホームを奪われそうになる。彼らが着せたいユニホームは無い。奪って満足する。

いろんな人がこの感覚を味わってきたのだろうなと思う。だから政治はタブーになったのだ。

世界でも類を見ない少子化と高齢化の大波にさらされる日本で政治から距離をとっている暇はない。気づいたら詰んでいるのではないか。
いくらでもある欠点を探すのではなく、比較検討し任せる誰かを決めなくちゃいけない。自分ではできないことなのだから。

政治家なら「クソ眼鏡」などいくらでも暴言を吐いてもいいという風潮がある。そんなサンドバックには誰もなりたくないだろう。どれだけ優秀でもメンタルが鋼のような「異端児」しか政治家を続けられないのが現状である。そう考えると政治家には頭が下がるし、優秀な普通な人も政治に参加出来たら、どれだけこの国は知恵という財産を有効活用できるだろうか、と思う。

もっとも批判ばかりしていたのは昔の自分も一緒だった。人間の本質がそこにあって石を投げられる立場じゃないということは、自覚に努めないといけない。

職場で政治の話を強制するつもりはもちろんない。だが、自分が簡単に矯正させられることはあってはいけないよなと思う。
それにしても石丸と書くだけで注目が集まるものだ。関係あるかはわからないけれど、急にフォロワーといいねが増えて嬉しくなった。
良くも悪くも石丸効果。



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