プリティ・シングス
ラーメンショーってわかる、ほら、駒沢公園でやるやつ、来週からなんだけどさ。おすすめはね、大分佐伯ラーメン、ぼくが食べるのは毎年ここだね、行くなら食べてみてよ。そう言って、宇一さんは目の前にあった注文伝票の紙に「大分佐伯ラーメン」とビッグ社の軸がオレンジ色のボールペンでサッと書きなぐって、そのページを台帳から破いて渡してくれた。スペシャルティコーヒー、サードウェーブ、そういうキーワードで盛り上がるコーヒー業界に、飽きてと言うか嫌になってと言うか、なんだかすこしうんざりしていたときに、この店を知って、足を運ぶようになった。決して近くに住んでいるわけではないが、車で来ればそう遠くもないし、気取らずに気軽にコーヒーが飲めるのがいい感じのお店だった。豆そのものに注目すると、どうしても、コーヒーというのは浅煎りになりがちなものらしい。深く煎ってしまうと、苦味が強まって、コーヒーっぽさは高まるが、豆それぞれが本来持つ個性がわかりにくくなってしまうらしい。それで、豆にこだわりがあるお店だと、やたら浅煎りのラインナップが充実するという仕組みのようだった。少し前に行った店では、今日のおすすめです、と言われた豆でドリップを注文したら、苦味がほとんどなくて、かなり酸っぱいコーヒーだった。トマトジュースのようなフルーティさが特徴です、とバリスタの人は言っていたが、かなり酸っぱくて、飲んでいるうちに、コーヒーという飲み物がなんだったのかよくわからなくなってきたような気がした。たしかに、豆にこだわる人たちが言うように、苦ければいい、みたいなコーヒーが正しいとはオレも思わないし、たまにびっくりするくらいに苦くて焦げ臭いだけのコーヒーが出てくる店もあったりして、絶望的な気持ちになったりすることもある。自分がどのくらいコーヒーを好きなのかはよくわからないが、ほぼ毎日、日常的にコーヒーを飲むようになって、浅煎り過ぎる酸っぱいコーヒーがあまり好きではないということがわかってきたのと、ごちゃごちゃとコーヒーそのものにこだわる文化になんだか嫌気がさしてきたということもあって、駒沢公園通り沿いにあるそのコーヒースタンドがオレはすっかり気に入ってしまった。その店のコーヒーは別にスペシャルティの豆にはこだわっていないようだし、焙煎は自家焙煎で一応、店のすぐ隣の焙煎室で焼いているが、コーヒーのクオリティにブツブツうるさいイマドキのひとたちからすると、決して最高品質なコーヒーとはいい難いと思う。現に、スペシャルティのコーヒーにこだわっていたり、サードウェーブと呼ばれるようなお店に分類されるお店に頻繁に出入りしている人たちで、このコーヒースタンドについて言及している人に会ったことがオレはあまりない。それでも、べつに、オレはこれでいいような気がする。抽出器具も、いわゆるハンドドリップではなくて、クレバードリッパーという器具をこの店では使っている。お湯と豆の量と、お湯に浸す時間を守れば、よほど下手しない限り、誰が淹れても同じクオリティで抽出出来る器具、らしい。それで、この店では大抵、コーヒーなんか興味なさそうなキレイなお姉さんがコーヒーを淹れていたりする。スペシャルティとかサードウェーブとかにすっかり染まりかけていたオレは、初めは少しだけ戸惑ったが、何度か通ううちに、べつに、これでいいじゃん、そう思えるようになった。オレが今飲んでいるコロンビアは、カウンターの中にいるお姉さんが淹れてくれた。ありふれた、ふつうのコーヒーだ。特に何か特徴があるわけではないが、もともと、コーヒーなんてそんなもの、というか、そういうありかたこそがコーヒーの本当の役割のような気がする。宇一さんがレコードの箱からレコードを一枚取り出して、プレーヤーに乗せた。針が落ちて、電話のベルが鳴るSEがスピーカーから流れ始めて、ギターの音が鳴り、曲が始まった。誰のアルバムだろうと思って宇一さんの手元を覗き込むと、白い背景にカラフルな彩りが散りばめられたジャケットデザインだった。キンクスだよ、イギリスのおじいちゃんとかがさ、日曜の午後とかにね、聴いてるんだよね、そんな感じ。そう言いながら宇一さんはジャケットを見せてくれた。コーヒーを飲み終わったので、ラーメンショーの話の礼を言って、オレは店を出た。停めておいた車に乗ろうとしていると、隣のマンションのエントランスから女が出てきて、いきなり声を掛けられた。黒のリュックの人、来ませんでしたか、レイプされそうになって、荷物取られて、いま走ってきたと思うんですけど、来ませんでしたか。肩で息をしながら、もう寒くなり始めた十月の空の下に、上半身はタンクトップ一枚の姿でその女は立っていた。わたしのリュックなんです、いま出てきたと思うんですけど、走ってきませんでしたか、わたし、レイプされそうになって。女はオレの目をじっと見つめてそう話した。警察には連絡したんですか? あたりまえのことをあたりまえのようにしておれは返事した。何度も言ってるんです、あいつ、もう二度と来ないって言ったのに、久々に現れて、それでわたし、どうしたらいいかわからなくて、ほら、ひっかかれて。そう言って女は自分の左腕をオレに見せた。産毛が午後の日差しで光っていて、それから腕の外側の皮膚がうっすらと赤くなっていた。たぶん、駅なんですよ、駒沢の、駒沢大学の駅、乗せてってもらえませんか、お願いします。突然、頭を下げられて、オレは少し困ったが、駅までだったら通り道だったし、女の腕っ節からして、オレがなにかされることもあんまりないだろうし、まぁいいかと思って女を車に乗せることにした。じゃあ、助手席のっていいすよ、駅までなら、どうせ通るし。女はドアをあけてオレが運転席に座るよりも素早く車に乗り込んだ。ありがとうございます、ほんと、財布もケータイもあのリュックに入ってるから、わたしどうしたらいいのかわからなくて、助かります、いきなり見ず知らずの人にこんなこと頼んじゃって、すいません。クラッチを踏んでオレはキーを回した。はぁ、でもなんで駅ってわかるんですか? ギアが一速に入っていることを確認してオレはゆっくりと発進した。駅から帰るとおもうんですよね、絶対そうだと思うんです、あいつ、凝りもしないで現れて、またレイプされそうになるところだったんですよ。女はオレの方は全く見ずに、前を向いてそんなようなことを言い続けた。ふと、さっきまではこの車のなかにはなかった匂いにオレは気がついた。何かが焦げて燻るような匂いから、煙臭さを引いたような匂いだった。なんの匂いかわからなくて、女に気づかれないようにさりげなく匂いのもとを探したが、たぶん、女の身体から漂う匂いのようだった。女は脚の上に手を重ねるようにして置いていて、上になっている右手の甲には、煙草の吸殻を押し付けたやけどの跡のような印鑑くらいの大きさの点がいくつもあった。どうして乗せてしまったのかほんとうによくわからなかったが、女はオレには何もしてこなくて、ただただ、そのストーカー男とのいままでの出来事を話していた。ぼんやりとオレはその話を聞いていたが、具体的な情報は全く含まれていなくて、その男のことが自分はいかに嫌か、ということを表現を変えて繰り返し言い続けているだけだった。流石に少し怖くなってきて、早く降りてくれないかなー、と思ったが、駅まであとワンブロックの距離の信号で車が止まると、女は突然シートベルトを外して、すいません、ここからは走っていきます、ありがとうございました、と言ってドアを開けて飛び出していった。すぐ横をバイクが通り過ぎた直後に女は後ろも見ずにドアをあけたのでオレはヒヤッとしたが、後ろから突っ込まれたりすることもなく、女は車の降りて駅の方へ走っていった。女が降りたあとも、車のなかになんだか変な匂いが残っていた。いったいなんだったんだろうアレは、そう思いながらオレはシャツの胸ポケットに入れてあった宇一さんのメモを取り出した。ラーメンの名前がなんだったのかをさっきから考えていたのだが思い出せなかったのだ。大分佐伯ラーメン。そうだ、さえき、だった。ラーメンショーは二週間後だが、とりあえずその佐伯ラーメンを食べてみようと、オレは思った。(2018/02/01/02:05)
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