私がどうやって毎日を「生きて」いる/いたのか ①|青山

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※今回は、青山さんに寄稿をお願いしました。こちらはシリーズ化を考えています。


トランスジェンダーである私が、日常を「生きる」ためには、いくつかの困難を乗り越えなければいけません。
今回はそのうちの1つを紹介しようと思います。

「パス」という概念

トランスジェンダーのコミュニティ(と言えるほど、個人間のつながりがあるとは思えませんし、私もコミュニティに属しているとは思っていません)では、「パス」「パス度」といった言葉がよく使われています。
「パス」「パス度」といっても、なんのことだかわからない人がほとんどだと思います。私も初めはそうでしたから。

パス:トランスジェンダーが日常生活や立ち居振る舞いにおいて、他者から自分の性同一性(性自認/ジェンダーアイデンティティ)と認識されること。
パス度:トランスジェンダーがパスできている度合い。

こうしてみると、私は意外と「パス」できていたんだなと思います。トランジション(性別移行)をしてから一度も、「あなたは男の人?」「あなたはトランスジェンダー?」などと聞かれたことも、男性として扱われたこともないからです。
むしろ、戸籍上の性別が求められる場面で、知らないうちに女性として登録されてしまっていたこともありました。

しかし、私はこのような考え方はあまり良くない気がしています。
「パス」という概念が、トランスジェンダーを「パス」している人と「パス」していない人で分断し、序列化する営みに繋がってしまうのではないかと思うからです。
実際に、「パス度」という言葉は、「パス」できている「度合い」のことで、比較のために用いられるのだと推測されます。

さらにこの「パス」という表現自体にも、私は違和感を覚えています。
「パス」は他人からのジャッジを含むからです。
個人は個人として尊重されるべきであるし、それはトランスジェンダーであっても同じ。でも、「パス」という言葉に個人としての尊重は残念ながら見られません。
日常生活や立ち居振る舞いで、「女性」「男性」などと性別二元論的にジャッジされ、それを飲み込むことを私はしたくないです。
私はおそらく「パス」しているのでしょう。でも私はそれを受け入れません。

「パッシング」という営み

さて、先ほどは「パス」ということについて否定的に述べました。ここからは似ているようで全く異なる「パッシング」という営みについて述べたいと思います。

パッシングは難しく説明しようとすれば、社会学的な論点を含むため、長文になります。しかし私の考えるパッシングは簡単で、以下の通りです。

パッシング:人々がさまざまな営みを通して、日常生活を支障なく送れるようにする営為のこと。

社会学では、

パッシング(passing)とは、スティグマとなり得る情報を他者に知られないように管理・ 操作する営みのことであり、スティグマのある人が社会関係を営むために必要な行為のこと。

というようなE. GoffmanやH. Garfinkelらの論をもとにしたパッシングを述べることもできますが、ここではこの程度にしておきます。
GoffmanやGarfinkelの論でのパッシングは、スティグマ(stigma)を持っている人や付与された人だけが行なっている営みのように見えますが、実際には、すべての人が行なっている営みだと私は考えているからです。

具体例を挙げてみましょう。
たとえば、嫌いな同僚がいるとします。でも、あなたはその同僚と仕事を一緒にしなければならない。さて、あなたはどういうふうに行動しますか?
・嫌いな人となるべく一緒にならないようにする。
・嫌いであるのを相手に知られないように振る舞う。
・嫌いであっても我慢して一緒に仕事をする。  など
人それぞれの選択肢があるとおもいます。そしてどれも、日常生活を支障なく送るために行なっている営みだと思いませんか?
これこそがパッシングという営みです。

実のところ、これはGoffmanやGarfinkelらのパッシング理論を拡張し、生活における行為(doing)に着目した私自身の考え方です。パッシングを、スティグマのある人だけがやっているのではなく、誰もがやっている。
ただ、スティグマのある人たちは、何も考えずにパッシングできる人と異なり、自分の営みを細かく分析し、自分のスティグマが露見しないように操作するという難しい営みが必要であるということです。

そうです。パッシング自体は皆さんもすでに行なっているんです。ただ、スティグマのある人が意識的に行わなければいけないのに対して、スティグマのない人は無意識に行えているというだけなんです。

私のパッシング実践

私のパッシングはどちらかといえば、スティグマのある人とない人の中間のような営みです。というのも、私はトランスジェンダーではありますが、別にそれを隠して生活しているわけではありません。言っていないだけなのです。
(ただ、教職員としての生活をするにあたって、システム上の性別がわかる管理職の方々には明かすしかありませんが、ここでは省きます。)
私はトランスジェンダーであるとも、女性であるとも一言も言っていません。しかし、周囲の人たちは、私の名前や容姿を見て「女性」であると判断し、「女性」として扱っています。

それは自然に「パス」できているからなのでは?という意見もあるでしょう。
それについては、おそらくNOです。
私は外見的にも、声質も、性別移行前からどちらかといえば女性的でした。
ですが、身長は日本人男性の平均身長を10センチ弱超えますし、体も大きい方です。力も決して弱いわけではなく、筋肉量的には同じ身長の男性と比べてやや多い方です。
自然にパスしているというわけではないでしょう。

あくまでも私は、自分が自分らしくいられるように戸籍上の氏名をかえ、自分らしくいられる格好や振る舞いをしているだけです。
トランスジェンダーであるから、という理由もありますが、トランスジェンダーである前に「私が私である」というアイデンティティのための行為です。

トランスジェンダー女性というと、いわゆる女性的な装いや振る舞いをしているイメージが持たれがちです。
女性というジェンダー表現をし、女性のジェンダー規範に則って振る舞うと言ったように。

しかし私はそのようなことを意識的にしているつもりはありません。
たとえば私はワンピースを着ることがありますが、それは女性ジェンダー表現だから着ているのではなく、私が着たいから着ているに過ぎないのです。
私はメイクもほとんどしませんし、いわゆるムダ毛ケアもあまりしていません(ただ、私は毛への嫌悪があるので、抜いたり剃ったりしがちですが、これは嫌悪からくるものでジェンダー規範的なものからではないです)。
幼い頃も、可愛いものが好きでしたが、一方で「男の子の遊び」と昔は言われていたヒーローごっこも好きでした。

こう、挙げてみると、女性ジェンダー表現にきちっと従った表現をしなければならないと言った規範があるのであれば、私はそこから外れていると言えるでしょう。
それでも、私は女性として生活しているのです。
これは、自分が自分であるためのパッシングをした結果、女性としての生活となっているということにすぎません。
女性としての生活は、「パス」したから手に入るというわけではないと思っています。むしろ、自分が自分らしくいられるような考え方をしていたからこそ、今の生活があると思っています。

最後に

私は、トランスジェンダー女性です。
ですが、いわゆる「女性ジェンダー」的な表現をしているわけでも、「女性ジェンダー」規範に従っているわけでもありません。
私は、「自分が自分らしくいられるような生き方」をしています。
(身体的な違和が強く、うつ病になってしまっていますが……)
そしてこれからも、トランスジェンダー女性でありながら、「女性ジェンダー」規範に縛られずに生きていくでしょう。



○活動概要については、以下の記事をご覧ください。




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