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技術者としての芸術家

ずっと、芸術における「作者」の復権について考えている。この時代にいかに作者という存在の特別性を取り戻すか。あるいは作者という概念の一部分を新たに定義し直すか。端折って述べれば、近現代以降「作品」だけでなく「作者」すらも商品化されていった故に、あらゆる手段でなされるマーケティングと、その動きへの疑念の双方から「作者」存在は解体されていったと言える。
今でも確かに存在しているはずの作者と作品の結びつきが、そのようなアートマーケットの動きとそれに伴う批判によって覆い隠されるようになってしまった、と理解している。
しかし、素朴な感覚として、素晴らしい芸術作品を、特有の感覚と研ぎ澄まされた技術によって生み出す作者はたくさんいるし、実際にそういった方々とお仕事をしているし、その創造性やクリエイティブに対する向き合い方に強いリスペクトを自分は抱いている。
この素朴な感覚を裏付ける理論、というのは現代のアートマーケットやアカデミックな芸術の場においては何周も時代遅れのようだ。
それでも「この人が、このすごいものを作ったんだ」という当たり前の感覚や「自分がこんなに素敵なものを作ったんだ」という普通の喜びがもっと尊重されていいと思う。そうした作者と作品と鑑賞者の幸せな関係を再構築して価値の源泉にしたい。現実空間ではそういう関係は確かにあるのに、マーケットにおいては無数にあるマーケティング手段のひとつでしかなく、それを逆手に取った(ハック、という言葉も下火になったな)利益創出も行われる相対的なもので、芸術理論においても作者性を解体する方が批評的にクールな時代も長く続いた。

ロマン主義以前、芸術家とは客体の美を描きだす技術者だった。
天才という概念によって内面の発露、天才性の発揮が「芸術」となったけれど、ロマン主義的な「崇高」をもたらす天才というのは虚像であって、それ以前から存在している美を生み出すための同じ技術を言い換えたものに過ぎない。アルスとテクネーの話のように。
ロマン主義を経由して、20世紀以降、作者性というか作者存在は解体されてきたわけだけれど、「技術」という側面によって、作者性を回復することは可能ではないかと思う。ロマン主義以前の状態に戻るのだ。作者は美という観念を感知し、誰もが認識可能なうつわに美を移し替える技術者となる。

その筋道から考えると、現在日本で「工芸」と呼ばれるカテゴリーを再度検証し直すことは必須だと考えている。
「工芸」をいわゆる西洋的な「アート」の文脈に近づけようとする動きがこの20年ほど盛んではあったけれども、アプローチのベクトルが間違っているように僕には思える。
「工芸」という視点から日本の芸術を再定義すること、その中に「アート」の文脈を飲み込むこと。それこそが古来日本のクリエイティブが得意としてきた範疇であるはずで、世界のアートマーケットに対しても特殊性を発揮できる部分だ。
より大きなパースペクティブとして大風呂敷を広げれば、アジア圏の美術史を西洋美術の文脈とは切り離して語り直し、その中で日本美術の立ち位置を捉えること。そうすることがソロプレーヤーが受け入れられるだけにとどまらない、日本の芸術を世界に響かせるための手段ではないか。
自分一人では手にあまる仕事だけれども、こうやって言い続けてたらそのうちなんとかなるはず。誰か助けてください。いろんな人の力が必要なのでよろしくお願いします。

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