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お犬(狼)さま信仰の新しい意味

全国の犬像の写真を撮り始めて以来、犬と狼を行ったり来たりしていますが、オオカミとイヌを新しい物語で語れないものか、「お犬さま信仰」の新しい意味はなんなのか、考え中です。昨日ブログで語った「プチ神隠し」との関係はあくまでも俺の個人的な狼信仰ですが、今日は、もっと一般的な狼信仰の話です。

先日の、NHK「ダーウィンが来た!」を見て、日本においてはニホンオオカミとイヌとの境目が想像以上に無いというか、あいまいというか、これまで漠然と感じていたことの理由がわかったような気がします。

タイプ標本さえイヌとの交雑種だったんだから、昔の日本人が遭遇していたオオカミも交雑種が多かったのかもしれません。それは『オオカミは大神』でも書いていたことです。番組を見て確信しました。

でも、俺は生物学的な狼とな別に、信仰上の狼の曖昧さは嫌いではありません。むしろ日本の特徴でもあるわけで、決してマイナスイメージではないです。

このオオカミとイヌの曖昧さを含んだ、曖昧さを許してくれるいい言葉があるではないですか。「お犬さま」です。

実際狼信仰について知っている人は、お犬さまがオオカミであることを知っていますが、一般的な人は、犬のことだと思うだろうし、どっちにでも取れるというのはすばらしい言葉だと思います。

「お犬さま信仰」は、現実にオオカミは絶滅したといわれて久しいし、害獣を防いでくれる益獣としての役割は終わっています。

だからこのままいくと、「お犬さま信仰」は過去の「文化遺産」になりかねないのです。ただ、生きた信仰であれば、これからも続いていくでしょう。この文化を廃れさせてしまうのは、もったいないと思うからです。

だから、次はなにか?というのが大切です。俺の関心もここにあります。

現代的な意味が付け足されれば、お犬さま信仰は続くはずです。過去は大切ですが、未来も大切です。

もともとお犬さまの、害獣を防いでくれるとか、泥棒、火災を防いでくれるとか、狐憑きを治すのに効果があるとか、コレラに効くとか、そういったご利益は、その時代時代に、人々の意識的・無意識的な願望が作り上げたお犬さまに対する物語であったわけです。だから時代とともに、その願望が変わってくるのは当然だし、お犬さまの意義・意味も変わってくるのは当然なことなのではないでしょうか。

そこですでに何度か紹介しているふたつの事例が、狼信仰の未来を感じさせるものとして注目されます。

ひとつは、武蔵御嶽神社の犬のご祈祷です。さっきも書きましたが、「お犬さま」と聞いて、狼信仰のことを知っている人であればそれは「狼」を意味し、知らない人であれば「犬」を意味します。「狼」「犬」どっちにもとれる「お犬さま」という言葉自体に、俺はすごさを感じるのですが、そこを逆手にとって、狼だけではなく、犬までも受け入れて行こうとする武蔵御嶽神社の取り組みには、時代の先見性を感じます。

神社関係者によると、犬のご祈祷を始めた当初は不安だったと言います。批判も覚悟したようです。

もともと犬は不浄なものとして、神社とはあまり相性がよくなく、今でも、犬が境内に入ることが禁止されている神社は多いです。お犬さま信仰の総本山ともいえる秩父の三峯神社も、前は犬連れOKでしたが、何年か前から犬連れ禁止になってしまいました。いろんな事情はあるのでしょうが、残念なことです。

これは時代の流れでもあるのですが、ここまで犬が家族同然となっているのに、わざわざ犬を禁止する意味がどこにあるのでしょうか。たとえば「子供禁止」とか言い出したら大バッシングを受けるでしょう。でも今は「犬」なら平気だというのは、ちょっと遅れているのかもしれません。もちろん、俺も初めは犬嫌い(犬恐怖症)だった立場から、犬嫌いの人の気持ちもわからないでもありませんが、時代は確実に変わっています。

そしてもうひとつ。これも何度も紹介している、山梨県丹波山村の取り組みです。七ツ石神社の再建プロジェクトというのがあって、数年前から経緯を見させてもらってきましたが、無事にお宮とお犬さま像が再建補修され、文化財にも登録され、狼信仰が村おこしに一役も二役もかっています。このあたり、お犬さま信仰が村おこしと結びつくということに新しさを感じます。

他にもありますが、要するに、狼信仰が現在進行形であるこが大事なんだと思います。もったいないではないですか。今まで続けられてきた狼信仰という、狼を象徴とした、動物(人も含む)、自然環境との関係を考えるきっかけを与えてくれるものは、これからも続いていくことを願っています。


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