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ネットの匿名と隠れ家理論

「ネット上の誹謗中傷、規制検討へ 与野党「ルール化必要」 木村花さん急死で」(毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20200525/k00/00m/010/214000c)というニュースがありました。

最近は、ますますネットでの誹謗中傷が問題になっています。木村花さんはそのことが原因で自ら死を選んでしまったらしい。痛ましい話です。

おそらく、誹謗中傷した人は、現実社会では、ごく普通の善良な市民だと思いますよ。もしかしたら、本人は「善意」や「正義感」でやっているのかもしれません。「自粛警察」と似た臭いを感じます。

私も誹謗中傷は受けたことはないですが、絡まれそうになったことはあります。ネットで見ず知らずの匿名者からコメントがきたときは、少し身構えますね。なんといっても、誰だかわからない人からのコメントなので、慎重に回答しています。

例えていうなら、暗闇から突然声を掛けられて、いきなり「おまえ。何か返事しろ!」と言われているような、恐怖感までは行かなくても、圧迫感というか、そんなものを感じます。

どんな信条、どんな年齢で、どこに住んでいるのかもわかりません。顔が見えないのです。たぶん、相手は俺のことを知っているんだろうな、と思うと、ますます不気味さが増します。

だからなるべくコメントが来た初回は、あたりさわりのない答えをします。そのうち人となりが分かってくれば、匿名者でも、普通に会話できるようになります。

そっけない私のコメント返しが災いし、私のSNSにもコメントがほとんど来なくなりました。適当に答えているのが見透かされるんでしょうね。あるいは「コメント来るな」オーラが出ているのかもしれません。もちろん、まじめに質問してきた人には、ちゃんと答えているつもりですが。決してコメント来ない方がいいとは思ってませんので、ぜひ、匿名者でもコメントください。

アップルトンの「隠れ家理論」というのがあります。

大雑把に(私が理解した範囲で)言うと、「眺望が良いところで、しかも近くに隠れるところがある場所というのは、生物学的に、人間が好ましいと思う空間である」ということらしい。(間違っていたらすみません)

つまり、これは動物である人間が、自分の身を隠しながら、敵を観察できるところでもあるらしいのです。なんとなくわかります。確かに落ち着けます。

これが、ネット上の「匿名」というものなのかなと思います。

ネット上に氾濫しているおびただしい数の情報。見たいと思えば簡単に見れる。意見を言おうと思えば簡単に言える。しかも、自分の身は隠してそれができるのです。これは、「隠れ家理論」で「好ましいと思う空間」そのものではないかと思うわけです。ネットがこれだけ発展したのは、この人間の「好ましいと思う空間」が、自宅にいても提供されるようになったからではないでしょうか。この「匿名性」が快感なのです。

「全体」にまぎれることで、透明人間のようになれ、しかも自分は傷つかない。動物の生存本能として、これ以上重要なことはないと思われます。自分の身は安全なところにいて、誹謗中傷も憂さ晴らしもやりたい放題ができて、本人にとっては、精神衛生上とてもいいのでしょう。

それと、やっぱり「数」ですかね。みんながやっていると、つい自分のやっていることが「良い」と強化されてしまうということがあります。

私は匿名がすべて悪いとも思っていません。

ただ、ノンフィクションと匿名というのは、あまり相性がいいとも思えません。匿名の人が書いたノンフィクションでは説得力がないように思うからです。実在するこの人が書いているから(あるいは、撮っているから)、その文章(あるいは写真)を信頼するということがあると思うからです。

ところで、女性ノンフィクション作家にも年齢を隠している人がいますね。年齢という情報も、読者からすると、「ああ、こういう時代の人だからこう考えるのか」とか「この年齢だからこういう意見を持っているんだな」と、参考になるとこともあるんですが。作品の中の他人の年齢はすべて正確に書いているのに、書いた本人の年齢だけは書いていない・・・。ちょっと引っかかります。これも「隠れ家理論」なのでしょうか。

もっとも、このことを非難しているのではありません。私も、その女性ノンフィクション作家同様、「隠しておきたいこと」はもちろん隠しています。(たぶん、何でも正直に書いたら、とんでもないことになるでしょう) それはやっぱり、その点について目立ちたくない(敵から襲われたくない)という「隠れ家理論」で説明できるのかもしれません。

ただし、人に意見を言うとか、非難するとかの時は、実名を出してほしいですね。誹謗中傷も、実名でならいいのではないでしょうか? 捕まりますが。でも、捕まってもいいと思うくらいの信念が無ければ、誹謗中傷はしないことですね。

「ルール化必要」には全面的に賛成です。ルールは、押し付けられるものとは違います。お互いの利のためです。たとえば、ルールがないところで車の運転ができるでしょうか。できません。交通ルールは、反社会勢力の方々さえ、ちゃんと守っています。

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