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Chat GPTに追われ新美南吉『おじいさんのランプ』を読む

誰もがすなるChat GPTといふものを、主婦の私はいまだ触れてもおりませんが、遠からず触れることになりましょう。母親として、我が子がこの便利なツールにどっぷり染まってゆくのを見るのが先かもしれません。あるいは予備校講師として、このチャットボットに仕事を追われるのが先かもしれません。いずれにせよ、ごく近い将来かならず大きな影響を受けることは間違いない。

それはとりもなおさず私が知的ホワイトカラーであるからに他なりません。

(自分のことを知的だと自慢しているわけではありません。肉体労働をしていないのは事実であり、単にそのことを言っているだけのことで、それ以上でもそれ以下でもありません。)

このChat GPTによって真っ先に仕事を失うのは知的ホワイトカラーです。ただ、この未来ーーAIの進化によって仕事がなくなる未来ーーは、2013年にオックスフォード大学のマイケル・オズボーン博士が、かの『雇用の未来』で既につまびらかにしていた未来であり、何も驚くにあたらず、という気はします。知的エリートならこの論文は読んでいるはずで、かつ「10年後になくなる仕事リスト」の中に、まさにいま自分が就いている職業が含まれているのを見たはずで、よもやその時に全く何事かを考えずに終わった者などおりますまい。いたらただの自称エリートです。

私個人の仕事でいえば、長く予備校講師をしています。この仕事にしがみつく必要は特にないのですが、仮にあるとして、最大の難敵はChat GPT以前に、そもそもこの国の少子化です。この大学全入+私大淘汰+推薦入試全盛時代、予備校なんざ、あした不要になっても全く不思議じゃありません。そのとき、いくらこっちが働きたくとも、職場そのものが無い可能性は非常に高い。2040年のシンギュラリティなんて甘くてゆるくて笑っちゃいます。こちとら事態ははるかに切迫してるっちゅうの。

「いやでもね、先生、」と、慰めてくれるおつもりか、言ってくれる人もいます。「いやでもね、先生、生徒を励ますとか、そういったことって、やっぱりAIには出来ないんじゃないかなあ。最後の肝心な場面では、生身の人間の出番だと思いますよ」。

それは希望的観測が過ぎるというものでしょう。私がこれまで培ってきた,
私だけが持つ、とっておきの「生徒を励ますスキル」ーー適切なタイミング、適切な声のトーン、相手次第で変える適切なキャラづくりーーを、そっくりそのまま学習したAIが出てきたら最後、講師の私はとうとうすっかりお役御免の無用の長物になるのです。(そもそも最近の生徒さんは「先生、どうか皆の前でほめないで下さい」とおっしゃる世代なわけですから)

ただでさえ「ポケトークがあるんだからリスニングなんて勉強しません」とか本当に言われちゃったことがあるのに、「Chat GPTがあるから英作文なんて勉強しませーん」と言われかねない現在、講師大量失業時代の到来は目に見えています。

どう考えたって、こういった結論に行き着くはずなのですが、お認めにならない先生方も多い。それはそうでしょう、情熱をもって取り組んでいる自分の仕事が、ポケトークだのパロちゃんみたいなロボットだのにごっそり取って代わられるだなんて、想像したいわけがない。でも、どうしたって、早晩そうなるはずなのです。頭脳明晰であろう人たちが、なんでそこだけはクリアに考えられないのか。おそらくは不快な水晶玉のお告げを本能的に避けてしまっているのでしょう。現実逃避というか、正常化バイアスとでもいいますか。

これとよく似た現象を、昭和17年(1942年)に、ある童話であぶり出してみせた作家がいます。新美南吉、みんなだいすき『ごんぎつね』の作者です。『おじいさんのランプ』というこの作品は、教材として取り上げられたことも多く、ご存じの方も多いでしょう。

時は文明開化、孤児の巳之助は東海の寒村でその日一日食べるのがやっとの暮らしを送っています。ある日、出先の町で、ランプというものを初めて見、その便利さに衝撃を受け、そのままそれを手持ちのなけなしの金で仕入れ、村に持ち帰って売る、という行動に出ます。はじめのうちは苦労したものの、あんどんですらちょっとぜいたくな村において、巳之助のランプ売りは大成功したのでした。

(という要約も、頼めばChat GPTが秒で片づけてくれるわけです)

ところがやがて、町には電気が引かれることになります。巳之助は、「電気とやらいうもん」をよく知らず、

(略)ランプでさえ、村へはいってくるにはかなりめんどうだったから、電燈となっては村人たちはこわがって、なかなかよせつけることではあるまい(略)

おじいさんのランプ(以下同)

などと考えるのですが、お得意さんたちはそうは考えません。ランプと違って、「電気というもん」は「火事の心配がのうて、明るうて、マッチはいらぬし、なかなか便利なもんだ」からです。

「巳之さん、そういっちゃなんだが、とてもランプでは太刀うちはできないよ。ちょっと外へ首を出して、町通りを見てごらんよ。」
 巳之助はむっつりと入口の障子をあけて、通りをながめた。(略)ランプを見なれていた巳之助には、まぶしすぎるほどのあかりだった。巳之助は、くやしさに肩で息をしながら、これも長いあいだながめていた。
 ランプの、てごわいかたきが出てきたわい、と思った。(略)

電燈という文明開化の利器を、自分の商材である「ランプの、てごわいかたき」だと思い、あかりを「まぶしすぎる」と感じる巳之助の姿が、Chat GPTを、自分たち知的エリートにとって、好ましからざる何かだと思い、その処理能力がとてつもなく驚異的だと感じる我々に重なる、などどあえて指摘する必要もないくらいでしょう。私たちが巳之助から学ぶことは多そうです。

電燈みたいな、あるいはChat GTPみたいな新しいモノは、そう簡単には受け入れられないだろうと、たかをくくるのは自由ですが、そうしていると次へのステップが自分一人遅くなるだけであります。また、ただ「くやしい」と思っているだけでも、何も変わりません。講師の仕事がなくなることが分かった瞬間に、次の策を考えなければならないのです。誰もが、自分で選んだその仕事をベストと思って取り組んでいるはずですから、なかなか簡単には手放せないでしょう。自分にはこれしかできない、と思っているかもしれないーー専門教育を受けているわけですからね。高い学費も払ったことでしょうーーサンクコストってどうしても気になって、手放すべきものを手放せないものです。しかし、まことに遺憾ながら、最悪に思えるものの中からベターなものを探すしかない時が来たのです。

とはいえ普通はそんな簡単に見切りはつけられない。Why meの怒りがわくのも当然です。にんげんだもの。巳之助もそうでした。

巳之助は、だれかをうらみたくてたまらなかった。そこで、村会の議長の役をした区長さんをうらむことにした。そして、区長さんをうらまねばならぬわけをいろいろ考えた。

これぞまさしく「誰でもよかった」の典型のような思考ですが、まあそうなるのも無理もない。こうなったのは巳之助だけじゃありません。むかしむかし、イギリスでは、「誰でもよかった」どころか、はっきりとその敵意を機械に向けた労働者たちがいて、それがラッダイト運動だったわけですが、はたして我々もChat GPTを打ちこわすべきなのか。日本では、首相がそのCEOと会って話をしたくらいですから、今のところ、その気配はなさそうです。イタリアは、国から締め出す、という明確な方針を打ち出しました。

さて、怒りに燃えて「頭がどうにかなってしまった」巳之助は、マッチと火打石を手にするのですが、幸か不幸かこれがうまくいきません。

「古くせえもなァ、いざというときにまにあわねえ、……古くせえもなァ、まにあわねえ……。」
(略)
 巳之助は今になって、じぶんのまちがっていたことがはっきりわかった。……ランプはもはや古い道具になったのである。電燈というあたらしい、いっそう便利な道具の世の中になったのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。

怒りから受容の段階に、どれくらいの速さで移れるのか、それは人それぞれであるし、巳之助があっさりこの心境に至ったとは言いません。しかし、いずれこの結論に達しなければいけないのであれば、できるだけ早いほうがよい。このハイスピードな時代においてはことさらに。好むと好まざるとにかかわらず、もうChat GPTは生まれてしまったのです。そしてそれは、知的ホワイトカラーが独占していた仕事を代行できる。安い早いうまい。人はそっちに流れます。それが効率というものです。効率という言葉が好きか嫌いかはおいといて、そういうものだから仕方ない。現に私だってこの原稿を手書きではなくパソコンのワープロソフトで書いているし、あなただってこれを郵便屋さんから受け取ったのではなくデジタル端末で読んでいる。そういうものです。

わかっているけど、認めたくない。なんやイヤ。そういう気持ちになるのもわかります。巳之助も同じでした。その姿を、新美南吉は残酷にも鋭く断じます。

へいぜいは頭のよい人でも、しょうばいを失うかどうかというようなせとぎわでは、正しい判断を失うものである。とんでもないうらみをいだくようになるものである。

誰かに何かを教えるしょうばいがなくなるとて、誰をうらみに思うことがありましょう。そんなことしてる暇あったら次の別の生産的なことを考えねばなりません。生産的という言葉が好きか嫌いかはおいといて、考えることなら我々いつだって得意じゃないですか。それこそが知的ホワイトカラーの真骨頂でしょう。手計算から電卓の時代に突入しただけです。ただそれがちょっと予想より急激に早かっただけ。だったらこっちも素早く次の手を打つだけのことです。

巳之助もまた日本のお国の人間なら、日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。古いじぶんのしょうばいが失われるからとて、世の中の進むのをじゃましようとしたり、なんのうらみもない人をうらんで(略)、なんという見苦しいざまであったことか。世の中が進んで、世のためになるあたらしいしょうばいにかわろうじゃないか。
 巳之助はすぐ家にとってかえした。 
 そしてそれからどうしたか。

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