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私と「毒親アートフェス」のこと

毒親アートフェスHP
https://dokufes.com/art-fes/

毒親アートフェスクラウドファンディング

https://readyfor.jp/projects/94232


自分が被虐待児であることをながく受け入れられなかった日々から学びへと導いてくれた

「毒親アートフェス」


結論から言うと

発散だとしても、自分を知るためだとしても
どんな理由であれ、どんな形であれ、

「毒親アートフェス」が人々にもたらすものは必ずある

と思っています。


なぜそう感じるのか、そう思ったのか、お付き合い頂けたら幸いです。

当事者の方や、虐待されているのかも…されたのかも…という方やそうでない方でも、きつい表現があるかもしれませんので
お辛い方はご無理なさらずブラウザバックして下さい🙇‍♀️
なるべく具体的には書かないよう気をつけますが、どうしても辛い表現がゼロにはならないと思いますので…



幼少期から、それもまだ赤子の頃から、
ずっと私の家族も親類もすべからく形はどうあれ、どこも機能不全家庭だらけでした。

曾祖母の代から毒親一族であったという認識が今はあります。
というのも、曾祖母以前は知らないからという理由で
その世代からという認識になるので、

祖父方が子供を
丁稚奉公(でっちぼうこう、意味は伏せます)をしている時点で、
両家ともに古くからおかしかったのではないかとは思います。

虐待の発覚と洗脳

まだ1歳にも満たない頃、いつも取り立てが来ていたそうです。
私はサイレントベビー(母の言葉に言い換えれば、都合よく泣かない赤ん坊)だったと私が10代半ばを過ぎた頃から母にはよく昔話として聞かされていました。

父はほとんどいなくて
母は仕事がない日にはずっと飲み歩き
ネグレクトでした。
母について行けば、連れて帰れないことを怒られていました。
たかだか小学生低学年から高学年程の私に、酔った母をどうにかする力などあるわけが無いのですが、
八つ当たりなので祖父母にはそんなことは関係ありません。

ネグレクトと言っても
祖父母と叔父が同居していましたが
こちらとも身体的にも精神的にも虐待があり良い関係が築けていませんでした。

そんな状況で学校の統廃合などがあり、
中学でいじめを理由に不登校になりました。
学校にも居場所がなくなり
私はどんどん、体の調子がコントロール出来なくなっていきました。
母が精神病を持っていたので、
病院へと半ば無理やり連れていかれ、
わけも分からず通うことだけ逆らわずにいると病院から入院を宣告され、
病気が発覚しました。(病名は伏せます)
それまでもずっと、あなたは虐待されていると医師に告げられていましたが

入院してなお
私は全くもって医師にも他者にも耳を貸さず、我が家はこれが普通なのだと
私はスケープゴートとして…道具として産んでもらったのだから
役に立たなければならないのだと
命が天秤にかかるようなことであっても考え続けていました。

使命を全うするのを邪魔しないで欲しいとさえ思っていました。
マインドコントロール・洗脳が強すぎたのだと今は思います。
そしてその洗脳全てがまだ解けていないことも現在の主治医から診断されています。

周囲の人たちの優しさ

「ゆうりはどうしてそんなことをされているのに怒らないの?申し訳ないけど、心配だしそんなことをする親御さんが好きじゃないよ」

「ゆうりが傷つくことは、親しい自分が傷付くことと何も変わらないんだよ」

「泣いていいし、辛いって思っていいんだよ。心を殺しても、体がずっと拒絶していることが悲鳴なんだよ」

色んな言葉を友人や知人にかけてもらいました。
ありがとうといえなくなってしまった人も少なくありません。
当事者ばかりでした。
同じような境遇の中で
もう会うことも話すこともできなくなってしまった人もいます。
“それ ”が起きる度、奇妙な感覚のショックだったことを覚えています。

たぶん、あの時の自分は思想と体と精神そのものがぐちゃぐちゃで、受け入れられなかったのだと今は考えています。

どうして?なんで?ずっと疑問符ばかりでした。

大好きだった人との別れと怒りの言葉

同じ病院で同じ時間を過ごし、退院したあともずっと仲の良かった大切な人が「選択」をしました。

「どうして一緒にいってくれないの?」

今でもずっと心の奥深くに突き刺さっている言葉です。
私は手紙やメールのやり取りが止まっても
すぐには信じられず、ひと月ほど一方通行の連絡を繰り返し、ようやく彼女の実家に連絡しました。
最後にもらったメールには、「ずっと一緒」ではないことへの怒りがたくさん綴られていました。わかってほしいとも。

自分が自分自身を理解出来ていないと人を傷つけるのだと気づき、学びの道へ

当時、彼女のことをきっかけに
自分が被虐待児であることや
たくさんのことに向き合えなかったせいで、大切な人たちを追い込んでしまうのだと考えたように思います。

そこからは、家庭問題だけでなく
薬のことや様々な病気や症状のこと
心理学やどうやって自分と同じような気持ちの人が私のような形ではなく認知できるかなど目に付くものすべてを片っ端から学びました。

そこからは精査の日々でした。
自分の中の歪んだ認知を治療しようと奮闘しながら、
誤った情報の説明までしっかり理解することやエビデンスまできちんと関連付けたり
認知療法と同時進行で正しい情報を掴もうとしていました。
生き急ぎ、家族のことも結局変えられないまま、知識だけを蓄積する日々でした。

「毒親アートフェス」と出会い、表現してもいいことなのだと知る

私はその頃、別名義で作家活動を始めていました。
まだ何も定まらずただ漠然と心象を描いていました。
作業療法となればなんにでも手を出していた時期でもあり、
今思うとひたすらに発散する何かを探していて
心が限界だったのだと思います。

そんな時にたまたまTwitterで出会ったのが

毒親アートフェス

初めて見た時は、たしかに毒親という言葉は知識として持っているけれど
こんなに真っ直ぐに言っていい言葉だったんだ、という驚きが大きかったです。

それからすぐに申込をして、
その時は心象を描いていたのだから、と完成していた作品を提出して
なんだかとても、彼女がいたら
世界は変わっているよと伝えたくて
どうしてもそれは届かなくて
だから少しでも何か、自分のためじゃなく
彼女のためでもなく
これからの世界を歩む未来のこどもたちに
たくさんの幸せをとただ願いました。


新しい作品での参加での葛藤と得たもの


新しい作品を作って参加した時のことです。
「毒親アートフェス」の私が良いと思うところのひとつでもある、対になるテーマがあまりにも難しく
トラウマを理解したあとに掘り下げ表現することに苦しみ
ポジティブなテーマに関しては、何も思いつかずに逃げたいほどの気持ちでした。

どうにか描きあげて提出したあとのことです。
どんな絵を描く時も私はとてもストーリー性を大切にしているのですが、
それをゆっくり振り返ると
辛いことを描くのは、今まで思いもよらなかった練習になっていたことに気付いたのです。
自分を知るには自分を見つめようと試みてきましたが、
表現としても重要視することで
より鮮明に、そして自分の中で分かりやすく分解されて
「トラウマ」から
「きちんと心の整理をつけられたトラウマ」に変わったものがあることに気づきました。

ポジティブなテーマも、ネガティブな思考ばかりだったことすら詰め込んだからこれはどうにもならないんだ!と提出時には思っていたのに
冷静に振り返れば、自分の理想や求めるものの答えを出せているのだと解釈出来ました。

毎年テーマも違いますし、何を得て何を学ぶだとかそんなことはわかりませんが
私は、毒親アートフェスという場を通じて大きな学びや良いちからを得ることが出来たと感じました。

「毒親アートフェス」の参加を通して活動家へと変化していった

私は現在、成人被害者の保護やサポート、
自助活動グループにも顔を出したり、
資格取得に励んでいたりします。
関わり方はいつだってとても難しいけれど
この短い腕の範囲だけかもしれないけれど
少しでも生きやすい世界をと
自分がいなくなっても、ずっとそんな気持ちの人がいてくれたらいいなと伝えたり
見えぬ未来が少しでも幸せに溢れますようにと願って自分から動くようになりました。

きっと、あのとき「毒親アートフェス」と出会わなければくすぶって、彼女のところへ行っていたのではないかと思う日も少なくありません。

長くなりましたが、これが私の感じた毒親アートフェスです。



スマホからの投稿で長文かつ散らかっていますが、また少しずつでも手を入れながら
私の経験した毒親アートフェスを知って頂けたら、と思っています。

青柳ゆうり

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