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雲を見て詩がかければ一人前

疲れているというぐらいに疲れているな。大江健三郎『晩年様式集』の感想書いていろいろ考えを巡らせていたら寝ていた。起きたのが8時。

『ドン・キホーテ』はドン・キホーテが模倣するのは騎士道物語でそれは神話としての叙事詩が元になっている。古くは「アーサー王の騎士道物語」だが元々は韻文だった(『平家物語』のような)ものが口承として語られるうちに散文化して、それがドン・キホーテに感化を与えるのだが、それは叙事詩的な精神を伝えていたのである。それに対してサンチョ・パンサの言葉は農民の散文であり騎士道物語への批評になった。ドン・キホーテがサンチョ・パンサの諺やながながとしたおしゃべりを咎めるのは真っ直ぐな騎士道精神にとって邪魔な饒舌すぎる語りなのである。

大江健三郎も憧れるのは詩の世界であり、そこに一つの道筋があるのだが、しかし世界文学(西欧文学)にはキリスト教という共通の一つの道があったのだ。大江健三郎はそこは信じていないとするのだ。だから日本の柳田国男の民話が必要だった。しかし大江健三郎が学んだのは悲しいかなキリスト教文学の世界文学であった。そうしてものの詩的精神というもの憧れならも(それは騎士道精神に似て殉死というような死)そこに美を見出すのだが、一方農民文学としての諧謔もあるのだ。それが渡辺一夫から受け継いだラブレーの系譜。そこに『ドン・キホーテ』も入ってくる。というかサンチョ・パンサとしての『ドン・キホーテ』なのだが。

また『ドン・キホーテ』はドレの絵もあるようにミックスメディアとして発展していく。音楽も作られたわけだ。そうした拡がりが大江健三郎の小説の言葉だけでなく、絵画や音楽としての拡がりに注目するところなのだろう。

そして本来の詩は失われた世界ということにあるのだ。それが彼岸性であり、詩を読んでいくとそういうところに詩の秘密がある。例えば、ダンテ『神曲』でもゲーテ『ファウスト』でも彼岸を描く文学である。エリオットやイエイツの詩はキリスト教的なヴィジョン(彼岸性)なのだった。

そこと対立するのが女子供の文学なのではないかと思うのだ。それは生きていく文学として、騎士道の理念(美)からは除外されたものだ。そういう「うだうだのたわけごと」とドン・キホーテが嫌うサンチョの言説なのである。

ただサンチョは主人のドン・キホーテの夢や空想物語を批評していくが、彼の詩的精神には従属していくのだった。それは戦争で軍部の精神に従ってしまう大衆に似ているのかもしれない。そこに新たに女子供の視点(それまでの文学では避けられてきた視点である)を入れてフェミニズムをも視野に入れてきたのだと思う。今はフェミニズム文学真っ盛りだが。その一方で騎士道精神に美を見出す文学もあるのだ。ナショナリズムというのはそうだろう。

日本の戦後詩を考える上でそういうことは問題になっていたと思えるのは入沢康夫『詩にかかわる』の詩論(エッセイなのだが)のところで80年代に模倣というポストモダン的ななんでも詩として語れる(騙りという詩)は、ひとつのアイデンティティの「私」を虚構化して、それまでの詩をパロディ化するというのが顕著になってきた。それは戦後詩が詩の解体として呼び覚ました幻想論(吉本『言美』や『共同幻想論』)からマスメディア論として大衆を語るポストモダンな手法だったのだと思う。その中で仮面を被った精神性がオウム真理教のような事件を起こす。大衆からあぶれたエリートが取り憑かれる精神性というものだと思う。

しかし精神性はそうして崩れていきながら大衆性が跋扈していくのが今の姿で言葉の責任のなさとか、問題になっているのが今日的な詩の問題として、入沢康夫が危惧するところだった。

このへんの詩論は難しいのだが、いま室生犀星の『新しい詩とその作り方』を読んでいる。抒情詩の成り立ちで重要だと思うのだ。

あと戦後の詩の批判としては、小野十三郎『詩論+続詩論+想像力 (思潮ライブラリー・名著名詩選)』とか。

小野十三郎は短歌批判者であるわけだった。ただ入沢康夫は宮沢賢治の方向性で詩の可能性を探るのだが、その根本にあるのは叙情性であろうか?

入沢康夫の言葉で面白いのは左翼思想の持ち主でも右翼的精神性の詩が書けるということだった。しかし、それはミイラ取りがミイラになりはしないか?多分周りから持ち上げられてしまい右翼の仮面が取れなくなっていく。それを否定すれば否定するほど右翼だと思われていく。三島由紀夫は大江健三郎を右翼であると見なしたことのように。

いま問題となっているのは『ハンチバック』の市川沙央の右翼的言説だった。市川沙央は大江健三郎の陶酔を受けているのでそういうことはないと思うのだが大衆に引きづらすぎのような気がする。ドン・キホーテなんだよな。サンチョ・パンサのような批評家がいるだろうか?

そう思うと大江健三郎と江藤淳の関係もそんなところなのだろうかと興味深く思える。江藤淳は大衆論で吉本的なんだと思う(漠然と)。このへんは小林秀雄という精神論の塊だからな、避けている。

なんだっけ?無駄話が多くてやることを忘れてしまう。まず映画の感想を書くこと。それに「シン・俳句レッスン」と「シン・短歌レッスン」だ。余裕があれば短編連作小説の続き。その前に今日の一句だ。

雲を見て詩がかければ一人前

これは入沢康夫の言葉だった。

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