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ルイス・ブニュエルを観る

『哀しみのトリスターナ』

(1970/西仏伊)監督ルイス・ブニュエル 出演カトリーヌ・ドヌーヴ/フランコ・ネロ/フェルナンド・レイ/ロラ・ガオス/アントニオ・カサス


かつての『ビリディアナ』とも重なる、
老いた男と若い娘の関係を通じてスペイン社会を風刺する悲劇


孤児トリスターナを下級貴族ドン・ロペが引き取り、やがてこの娘を愛人にする。その後トリスターナは若い画家と駆け落ちするが、病のために片脚を切断することになり……ブニュエルにとっては『ビリディアナ』(61)以来、久々に(そして最後に)全編故国スペインで撮影されたスペイン語映画。そして、メキシコ時代の1952年に構想して以来、実現までに20年近くの歳月を要した作品である。『昼顔』に続いてヒロインを演じたドヌーヴは、本作をお気に入りの主演作の一本に挙げている。ブニュエルによれば、ヒッチコックは本作のトリスターナの義足に心底魅了されていたという。

どっちかというとカトリーヌ・ドヌーヴ目当てで観たいと思った映画だった。スペインの古都の街並みがいい。ブニュエルは、スペイン市民戦争の頃か国外へ亡命していたのだ。この映画でも忍び寄るファシズムの影がちらつく。ブニュエルと言えば『『アンダルシアの犬』でのシュールレアリズム映画の傑作を1928年に発表している。映画表現の限界値まで追求する姿勢は、保守派から睨まれたのはその時代の歴史だ。

この映画でもスペイン貴族の養女となった娘が、貴族である保護者である養父に家庭内暴力(性暴力)に晒される。それがトラウマとして残り、街の画家と恋に落ちて一度は家出するものの病になり戻ってくる。もう死ぬつもりだったのだが、手術して片足切断で生還。その中で養父の憎しみが増大していき、侍女の聾唖の息子に露わな行為をする。そして、養父の死を見過ごすことで復讐を遂げるのだ。

それが片足切断で義足を付けてベランダに出て聾唖者の青年の前で衣服を取り裸をさらすシーンは、衝撃である。聾唖者の青年は、労働者階級で貴族階級の夫人が裸をさらすことが価値転換なのだ。それは義足を取ってピアノを弾くシーンに彼女の感情が現れている。ショパンの「革命のエチュード」を弾くのだ。

さらにヒロインは、養父のさらし首が鐘堂でぶらぶら揺れる夢を見るのだ。それはシュールレリスム的な映像でもあるが、深層心理を表しているようにも思える。彼女の中にある感情は、革命を求めていたのだ。

カトリーヌ・ドヌーヴの魅力は、最初は喪服姿で三つ編みとか幼さを演出して、養父と結婚してから女性としての貫禄が出てくる。放浪画家がフランコ・ネロだった。この人好きも野生的な色気を含んだ役者で、どちらかというと人工美的な芸術的と言ってもいいカトリーヌ・ドヌーヴとは対置にある。聾唖の青年も下層階級で上流階級との格差があるのだ。ブニュエルが故郷スペインで描きたかった映画というのもよくわかる作品。

『昼顔』

( 1967/仏伊)監督ルイス・ブニュエル 出演カトリーヌ・ドヌーヴ/ジャン・ソレル/ジュヌヴィエーヴ・バージュ

ヒッチコックが賞賛したことでも知られる、
後期ブニュエル作品のなかで最も有名な一本


貞淑な若妻セヴリーヌは、日々密かにみだらな性的夢想に耽っていた。やがて彼女は、夫に隠れて高級売春婦として働き始める……ケッセルの同名小説を換骨奪胎し、人妻の妄想と現実の境界線をどこまでも曖昧にしてみせた、これ自体がひとつの迷宮のような映画。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞しただけでなく、興行的に最も成功したブニュエル作品ともなった。イヴ・サン゠ローランがデザインしたドヌーヴの衣装の数々も、見どころの一つ。この映画を霊感源としたマノエル・デ・オリヴェイラ監督による後日譚『夜顔』(06)も製作された。

こっちの映画の方が『哀しみのトリスターナ』より先に撮っていたんだ。逆順で観てしまったせいか、こっちのほうが後かと思った。それはドヌーヴも最初から主婦役だったから。カトリーヌ・ドヌーヴも思ったよりふくよかだった。こっちのほうがエロいです。

最初の鞭打ちのシーンは、夢だった。夢のシーンがブニュエルの特徴だというのが、今回よくわかった。映画的にも夢は相性がいい。

この作品が主婦売春の代名詞となったような作品で、日本でも上戸彩主演で『昼顔』の同名映画が撮られていることからもわかる。そのぐらい影響力が大きい作品だったのだ。

今見るとバブル期の有閑マダム的なブルジョアジーの映画でそれは、プルーストの時代の『失われた時を求めて』とも共通するエポックメイ・キングな価値転換があった時代なのだと理解できる。それは、フランスの60年代後半の社会を描いている(原作は1930年代のフランスだった)

馬車が森の中(ブローニュの森かな?)を走るシーンが『失われた時を求めて』を連想させる。その森の中で行われる性的な夢は、倒錯な夢でもある。それが現実となるとき、ブルジョアジーの退廃になるのだ。

今はこういう映画は批判的に思われるのかもしれない。男の願望として。そういう間違った欲望が描かれているのも事実なのだ。例えば、金持ちに男は性的魅力に乏しく客となるギャングの暴力男が今だとDV男として描かれるのだろう。

『小間使の日記』

(1964/仏伊)監督ルイス・ブニュエル 出演ジャンヌ・モロー/ミシェル・ピコリ/ジョルジュ・ジェレ/フランソワーズ・リュガーニュ/ダニエル・イヴェルネル

晩年のブニュエル映画に欠かせない脚本家
ジャン゠クロード・カリエールが、初めて参加した作品。

右派と左派の対立が激化した30年代半ばのフランス。一風変わったモンテイユ家の田舎屋敷に、パリからやって来た魅力的な女セレスティーヌが小間使いとして雇われる……超現実的な要素を抑えた、ブニュエル作品中最もリアリスティックな作品の一つ。そのせいか、ブルジョワ風刺と社会批評もいつも以上にその辛辣度を増している。腐敗を隠し持った名誉あるブルジョワ一家の使用人たちは、彼らが仕える富裕だが活力を欠いた雇い主よりも権威主義的かつ搾取的だ。本作はモンテイユ家をフランス社会の縮図に見立てつつ、「ファシズムの勃興/邪悪なものの勝利」に暗に警鐘を鳴らす。

これもなかなか怪異な作品。ジャンヌ・モローのパリ出身の勝ち気な小間使が田舎のブルジョア家庭で体験する恐怖。下男が少女暴行した後にその男と結婚してしまうのだが、それはフランスの占領下のナチスとかを暗示しているようにも思える。ストーリーが捻れている。ラストはファシズムの足跡が聞こえるような映像。

ジャンヌ・モローは、やはりフランスの1、2位を代表するぐらいの女優なのだろう。ここでも魅力を十分に発揮している。ドヌーヴ的な美人ではないが、フランス風のコケティッシュさに溢れているのだ。ツンデレみたいな。

この映画も夢のシーンは無いのだが、いつの間にか寝てしまって目覚めたのが軍靴響くラストだった。悪夢を観せられたのは間違いない。

『自由の幻想』

『欲望のあいまいな対象』


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