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鯉のぼり繋ぎ止められ乾き物

もう5月の半ばなのにまだ鯉のぼりがしまわれてなかった。雛人形は婚期が遅れるとかあるが鯉のぼりは別にそういうのはないのかな。まあ自治体の鯉のぼりだから、雨とかあってしまい忘れてしまったのだろうか?

肩が痛い。あっちこっち関節痛だった。そういう痛みは他人にあまり伝わらないからな。それだけで行動が制限されるのだが。出不精になるのも逆効果なんだが。

昨日はそんな感じで映画館と図書館に行ったが雨は疲れるな。朝の電車がまだラッシュ時だったので、肩が痛いのに押されて、よくこんなラッシュに我慢できるなと思うが、それが日常だと思ってしまえば普通のことなんだよな。でも昔の映画とか観るともっと酷い感じだった。冷房がなかったりしたのになんで我慢出来たのだろう。関節痛は冷房のせいもあるかもしれない。

映画はピエール瀧の復帰作なのか。薬物だっけ。一度そういうことがあると芸能界は難しいのか。一般社会でもそうだが。ただキャラとしてピエール瀧はそういうイメージというか、清純派で売り出していないので映画とかは出番はあるだろうな。TVは難しいのか?

それもへんな話で60年代のアーティストはほとんど薬物をやっていたと思うが尊敬されている。作家でもそうだけど、だからカッコいいとイメージがあるんだと思うがどうなんだろう。自分は依存症になりたくないからやらないだけなのかもしれない。もともとたばこも酒も身体に合わない体質だった。

酒が禁酒法なんかあった場合はそれが犯罪になるのであって、法というのは絶対ではないよな。宗教的な倫理みたいなものだろうか?イスラムでは肉は駄目だとかアルコールは駄目とか。でもそういうのも裏ではやっている人はいるんだろうな。なんでも法を破る人は一定数いるような気がする。判断基準としては人に迷惑かけないのなら別にいいではないかと思ってしまう。それなら酔っ払いを取り締まって貰いたいが、それも別にどうってことはなかった。あまり関わらなくなったからか。以前は酔っ払いばかりが周りにいたような。

宗教心みたいなものは必要なんだろかというより宗教の必要性かな。そういう感じには年齢と共になっているのだと思うが、いい加減な性格だった。『源氏物語』でも人生の後半は出家とか願うようになるのだが、それでも欲望は消えないのだ。八の宮は薫も慕うほどの宗教人だったのに、娘で悩むのだった。娘を持つ親はみな悩むようで、先のピエール瀧の映画も子離れ親離れの映画だった。『源氏物語』の時代はそれ以上に娘を持つと苦労するというふうに描かれていた。それは娘の幸福が結婚にあり、父親には社会的地位の保証であるからなのか。皇族の娘は平民と結婚させらないとか。だから大君の悩みもそんなところにあったのか?出家すれば良かったのかな。いまでは結婚しない女は、それなりにいると思うが、大君もそういうタイプというかむしろ同性愛者だったのではないかと思えてくる。薫が必要以上に嫌われたのはその地位だったのか、よくわからないよな。妹の結婚問題もあって、大君は妹と薫を結婚させようとしていたのだから、なんだろう。幸せになる罪悪感なのか。宇治十帖は現代ではわかりにくい話だと思う。それでも薫の決断力のなさというか大君との悲恋は浪漫になっていく。

薫も優柔不断なのに酷い奴だと思うのは、大君が駄目だったから中君でいいとか、あるいは中君につっけんどんにされて、もう一人隠し姉妹がいると聞けばそっちに関心を寄せる。前読んだ時はそれほど薫は嫌な奴だとはおもわなかったのは匂宮がそれ以上に嫌なやつだと思っていたからだった。しかし田辺聖子の匂宮はそれほど悪い男でもなかった。ただ欲望に忠実なだけだったのだ。むしろ家制度の結婚感に対してはフリー・ラブというような感じを受けるのは田辺聖子世代の幻想なのだろうか?薫のほうがいろいろ制度に捕らわれて身動き出来ない堅物になっていはいるが、むっつりスケベタイプというか欲望はあるので中君と結ばれたい(セックスしたい)と思っているとんでもない奴だった。まあ大君の形代(身代わり)としての中君であり浮舟だったのだ。浮舟はそういう繋ぎ止めておく紐(絆)がなかった。現代的な女性のイメージなのは、映画で松田聖子の浮舟を観たのでイメージ化されてしまった。

今日の一句。

五月雨やお雛様は流しびな

逆だな

鯉のぼり繋ぎ止められ乾き物

今日の一首

鯉のぼり
繋ぎ止められ
乾き物
さみだれすぎて
引き籠もりかな

音楽。ジャズ・トゥナイトは「母の日」特集。ホセ・ジェイムズ『1987』が良かった。


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