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みなとみらいケーブルカー揺れて彼岸かな

「シン・俳句レッスン」のテキストとして川名大『昭和俳句の検証』を読んでいるのだが、最初に「モダン都市俳句」が出てくる。関東大震災後の東京の復興計画、そこに一気に様変わりしていく東京があった。大正モダニズムからそういう変化はあったのだが、大正の頃はまだ和洋折衷という江戸の面影を残すものがあったのだと思う。その象徴が浅草六区の凌雲閣はランドマークタワーなのだが見晴台という情緒があったのだ。その凌雲閣が見事に真っ二つ折れたのが大震災だった。その後に凌雲閣は建てられず、東京の新たなランドマークは東京タワーの電波塔だ。

横浜みなとみらいにもラウドマークタワーがあるのだが、あまりそういうことは意識して観たことがなかった。確かに廻りの街(例えば野毛から)もランドマークとして存在していると昨日写真を撮りながら思ったのだが、ランドマークタワーという存在は面白いかもしれない。

野毛の裏通りから観たランドマークタワー

モダニズム俳句を作ろうと思ったのだが、昨日思ったのはビル風とケーブルであった。

ビル風にケーブルカー揺れみなとみらい 宿仮

昨日昼頃は運行中止だったのだが、夕方は運行していた。そこ頃はビル風も収まっていたが。逆か?

みなとみらいケーブルカー揺れ彼岸かな 宿仮

お彼岸でもいいかな?ビル風では季語にはならないし、俳語としてはいまいちなのかな。こういう場合聖と俗で観るのだけど、ビル風は俗なのか?みなとみらいが聖なる場所かもしれないが、意味的にはちょっと違う。後の句だと彼岸は聖なる場所でみなとみらいのケーブルカーは俗なる乗り物か?

昨日は朝から雨模様でnoteの書き込みを色々やっていたので、出かけるのが遅くなり昼近くに家を出る。映画を予約していたので、みなとみらいへ。映画はまあまあかな。

ナチスの復讐のためにナンパ男となってナチスの女を虜にして振って痛い目に合わせるという映画なんだが、恋の終わりはナチス時代でもなくともテロリズムになるなと記憶を思い出すのであった。だいたい失恋で自殺まで考えてしまうのは有りうるのだよな。それがナチスの復讐のテロリズムという視点は面白いと思ったが、悲惨さが伝わってこなかった。主人公が最初に婚約者をナチスに殺されるのだが、そのあと復讐鬼のナンパ男になるのだが、その同僚の男とホモ的な関係なのか、その友人がナチスによって殺されるシーンが感情を揺さぶるようになっていて、最後のナチス女(実際はただのドイツ女)を敗戦のドイツに置き去りにするのもいまいち感情が乗らなかった。

映画を観たあとに図書館に行くが月曜は17時までだったので一時間ぐらいしか居られなかった。

『窯変 源氏物語』「浮舟」を読んだ。その後にリチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読み始めたが、あまり読めず続きは電車の中で。「デトロイト」というフォードの根拠地でそこの美術館の壁画をデイエゴ・リベラというメキシコの芸術家が描くのだが、逆オリエンタリズムのような描写でおもしろかった。美術館のオーナーはフォード家の御曹司で、リベラはアメリカの資本家から絵を依頼されるのだが、出来上がった絵がベルトコンベアーで人間性を奪われた未来都市の歴史というような壁画になって、それは許しがたいことだという意見もでるのだが、アメリカの寛容さがそれを否定すると余計にそれは反資本主義のマルクス絵画になってしまうというので、今に伝っている。

そのモダンアートから「舞踏会へ向かう三人の農夫」の写真から物語を語っていくのだ。この手法がサイード『パレスチナとは何か』と同じような感じを受けたのだ。

そんなことを思いながらモダン都市俳句を考えていた。

そして寝てしまい、起きたら蒸し暑さと足が攣るので、すぐに風呂に入って天花粉をパタパタはたいたら山海塾になった。これで一句出来ないか考えたのだ。一句は作ったので一首でもいいが。

蒸し部屋に
天花粉を振りまいた
踊り子よ
山海塾に
誘拐された

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