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我が青春の読書

『異邦人』カミュ, 窪田啓作 (翻訳) (新潮文庫)

私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。

太陽の眩しさを理由にアラビア人を殺し、死刑判決を受けたのちも幸福であると確信する主人公ムルソー。不条理をテーマにした、著者の代表作。

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、理性や人間性の不合理を追求したカミュの代表作。

我が青春の読書だ。数少ない女子の読友が小笠原から「ムルソーの夢を見ています」と絵葉書で来た。その意味をづっと考え続けて今日に至る。今日あたりムルソーの夢が見られるかもしれない。最初からママンが死んで涙ぐんでいる。

翻訳で「ママン」がここまで有名にしたのかと思うぐらい名訳だと思う。「ママ」だと甘えているようだし、母ちゃんではやっぱ変だ。電報では「ハハ」の死を伝えているのだから、その言葉の落差を考える。「ママン」から来る幼子の想い出。それは海なのである。母なる海だ。

ママンは養老院で死ぬのだが、許嫁と言われた爺さんが葬儀に参加してくる。養老院の中で別の人生を送っていたのだ。これはすごくよくわかるのは、母が痴呆症で病院に行ったときにテーブル席で話ししていたら、どっかのおばあさんにあっち行けと言われて、母がそれを受け入れたのが悲しかった想い出がある。すでに母は別の人生を送っていたのだ。「ママン」から遠く隔てて未亡人の「マダム・ムルソー」となって。

「太陽のせい」と答えるのは、けっして突飛な答えではない。太陽が眩しかった。暑くて目に汗が入った。友人が感情的になっていたので銃を預かっていた。相手は友人をナイフで刺したアラブ野郎だ(実際にはそういう言葉はないけど、たぶんこんな感情)!今の分断社会では珍しくない情景だと思う。アルジェリアの植民地での出来事。

『失われた時を求めて』を読んでいるので、この短文の連なりは気持ちいい。語り手の自分の内面よりも事実を淡々と語っているのだ。それは神の視点。つまり一人称であるが「神の視点」なのだ。「太陽」はもうひとつの「運命」という「神」だろうか?

最初の「ママン」と「太陽のせい」があまりにも有名になってしまったので、ただの無差別殺人かと思うかもしれないが、そうではないのである。ムルソーには止む得ない理由があった。それを明らかに出来ないのは、裁判の判事がキリスト教を持ち出し神の如く許しを迫ったからだ。第一部が殺人事件で、第二部が裁判になっている。重要なのは裁判である。

「海と太陽」で思い出すのがランボーの詩『地獄の季節』である。ヴェルレーヌとのピストル事件。カミューの頭の中にそのことがなかったであろうか?ヴェルレーヌの宗教的改心。それまでの物語ならば「永遠」に続く人間の罪業の物語なのだ。「シシュポスの神話」のような。だから、それを断ち切らなければならない。ムルソーは神を拒否するのである。

「私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は自分が幸福だったし、今なお幸福であることを悟った。一切が成就され、私が孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集り、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」

ムルソーの「無神論」は、「架空のオペラ」劇場型殺人事件となっていくのである。

実際に一発目の銃発ではなく、残り五発の銃発で過剰防衛だろうだとは思う。しかし、それ以上に裁判の無関心なのだ。無機的に殺人事件が裁かれる。そんな「ママン」のいない世界。そして、裁判は「父(神)殺しの裁判」となっていくのである。「ママン」がいない別の世界の物語。カミュはカフカとの類似を拒否していたと解説にはあるが、「犬のように」裁かれる共通点はあるような気がする。

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