見出し画像

巻き舌ロリータはLが隠れている

いつの写真だ。たぶん去年だ。海に行きたい。そう書くと海に行ける。穂村弘だっけ会社を辞めて自由に海に行けると思ったけど行けなかったと書いたのは。思い込みが弱いのだと思う。昨日借りた『とおのあるき』というガイドブックで、釜石まで一時間以内で行ける距離だった。

昨日は昼まで寝ていて汗びっしょりで起きて図書館。『とおのあるき』というガイドブックを借りた。他に『川柳の理論と実践』。これは旬杯で川柳に投稿するため。いつも川柳は付け焼き刃のような感じになってしまう。図書館で本を読みながら川柳を考えていたが眠くなるばかりで。

俳句の川柳崩れみたいなのは浮かんだんだよな。それから『詩論の周辺』ポーの『詩と詩論』が返却期限が来てしまったのでとりあえず返却して代わりに借りた。

ナボコフ『ロリータ』を読む前に翻訳者の解説本『ロリータ、ロリータ、ロリータ』を読む。ロリータ本三冊目。こう書くと少女性愛者みたいだけど文学的興味からである。

大江健三郎『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』はポーの詩からナボコフ『ロリータ』の系譜を辿って自身のメタフィクションとなるような「ロリータ」系小説。アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータ』はイスラム社会で禁書とされる『ロリータ』読書会というような話。その中で『ロリータ』をハンバート・ハンバートの視点からではなくロリータの視点から読むのは亡命者ナボコフと近い自由主義者としてアメリカ資本主義讃歌として読めた。そして、三冊目が『ロリータ、ロリータ、ロリータ』なのだ。

フェミニズムの『ロリータ』本についても、ピア・ペーラ『ローの日記』やリンダ・S・カウフマン『ロリータのフレーム』のロリータ側から読む視点を取り上げてナンセンスだと論じていた。それよりもアメリカではナボコフ『ロリータ』が大学では読まれにくくなっているという。ナボコフはアメリカの自由主義を讃歌していたのにどういうわけだろう。それよりアーザル・ナフィーシーは『アメリカでロリータを読む』を書いてくれるだろうか?

それでナボコフ『ロリータ』よりも映画キューブリック『ロリータ』が気になって家に帰ってから観た。途中でねてしまったけど。続きを観る。

今日の一句。

巻き舌ロリータはLが隠れている

LはLサイズか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?