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シン・短歌レッス72

今日の一句

見たこともない花。いったいこの世界にはどんだけ知らない花があるのだろう。グーグル検索したら「グレビレアジョンソン」とか長い名前。正式にはグレビアジョンエバンス。人の名前だってこんな長いのは覚えられん。

改良品種の花だ。新種が園芸で多様に作られるがほとんどは消えていくのではないかな。そうだアジサイも改良品種の花だった。日本に本来あったのは山紫陽花で額紫陽花のような目立たない花だった。だから古典には登場してこないという。

たった一つの赤い花名もしらぬ多くの赤い花

今日の一句にしようかと思ったが長いな。二つ文章からなっているからな。

赤い花名も知らぬ花一輪の花

これで少しは短詩らしくなったか。

うたの日

お題「鳴」。
『百人一首』は

これも難しいよな。「玉ぞ散りける」を「声ぞ散りける」にするか?「つらぬきとめる」が使える。

あぜ道にかえる鳴く声夜の道つらぬきとめぬヘッドフォンの歌

もう少しミステリアスに。

あぜ道にかえる鳴く声夜の道忍び寄る跫(おと)ヘッドフォンの罠

なんかこのパターンは奈落だった。この歌もどんまい。難しいな。

小野小町の和歌


いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る                 小野小町

夢の歌三首目である。どこが夢なのかと思うが、夢に入る儀式「夜の衣を返してぞ着る」が恋しき相手を思うまじないとしての歌で、以後そうのような風習が伝わったとか(もともとあった説も小町のこの歌でそれが流行ったのかもしれない)。それが小野小町人気所以なのか?恋のというより夢の女神様のような存在なのか?

そんな夢見るかな?と現実感言ってしまっては乙女心はわからない。小野小町は思い込みの女王なのだから。それまでは見るとかものを対象的に読む和歌の世界に自分自身の夢とか思うをぶち込んできたのが小野小町だったのだ。このへんが小野小町とアイドルが繋がる共通項かもしれない。


平成歌合

今日の「平成歌合」は凡河内躬恒(おおしこうちみつね)ほとんどフリガナが無ければ読めないし、全然馴染みがない。それでも三番手に入ってくるぐらいだからそれなりの人なのだろう。『古今集』の選者だからというのもあるのか?三十六歌仙の一人と言ってもピンと来ないよな。

(歌合二十一番)
夜の隈に紛れもあへぬ白梅の天に氷輪ほがらかにあり
春の夜の闇はあやしな梅の花色こそ見えね香やはかくるる

梅対決。左は日中の梅で写実的。右は夜の梅で香りだすれば香りの方が『古今集』だろう。右の方がすっと入ってくる。「氷輪」がわからない。正解だが、左も夜だった。「氷輪」が月の冷え冷え輝く様だった。

(歌合二十二番)
雪とのみふるだにあるを桜花いかにちれとか風の吹くらむ
桜狩りふぶきに家路とざされて花の褥(しとね)に一夜明さむ

桜対決。単純に思うのは「家路」が漢語じゃなかろうかということだ。左は呪術的かな風に命令するのだ。右は風によって行動を閉ざされるとの違い。左『古今集』で右は正比古だろう。当たったけど左は少し意味が違った。桜がこれ以上散るのが名残惜しいという感情だった。右は『万葉集』の山部赤彦の本歌があった。

春の野にすみれ摘みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける  山部赤彦

『万葉集・巻八』

(歌合二十三番)
しるしなき音(ね)をも鳴くかな鶯の今年のみ散る花ならなくに
桜雨降りみ降らずみいぶせきにしき鳴く鶯なに思ふらん

わからん。ぱっと見では左が『古今集』だと思うのだが右は意味がよくわからん。当たり。両方とも鶯は何を思って鳴いているのか?という意味なのだが、左は来年も桜は咲くのに鳴いているなんて馬鹿じゃないのか、という意で右は雨が降ったり止んだりして桜が散ってしまうので、鶯は鳴いているのだろうという意。左はいい加減名前を覚えよう。凡河内躬恒は下二句は理屈を詠っているので現代では良しとされないという。平安時代はそれも機知の一つだとされた。理屈っていうのもわからんかった。

(歌合二十四番)
塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹(いも)とわが寝る常夏の花
ぬばたまの闇にしのびて紐解きてたれを待つらむ夕顔の花

順番から言うとそろそろ右が凡河内躬恒だと思うのだが「夕顔」の歌だから『源氏物語』から詠んだと思うと正比古かな。『源氏物語』は『古今集』より後だ。でも『源氏物語』が凡河内躬恒の歌を拝借したのかもしれないな。右はなんとなく『古今集』の世界だと思うのだ。外れた。左の歌も『源氏物語』に常夏の巻があるという。忘れてた。

(歌合二十五番)
秋荻の古枝に咲ける花見ればもとの心は忘れざりけり
野の風に古枝の末をなびかせてさはに零るる秋荻の花

左は去年の情事は忘れたということか?右は純粋に秋荻の花を詠んでいるな。左は凡河内躬恒。右は正比古だが正比古の勝ち。当たり。でも左の意味は女の気持ちが去年と変わっていなかったという意味だという。

(歌合二十六番)
しなざかる越の山路は梅雨晴れの青瑞山に雪代しるし
きえはつる時しなければ越路なる白山の名は雪にぞありける

左は梅雨の時期で右は春なのか。梅雨時期は正比古で右も春とは限らないな。白山は標高が高くて雪があるから白山と言うのだろう。下の句は理屈じゃないのか?理屈を言うのは、凡河内躬恒だろう。当たり。ボーナス問題だったか?

(’歌合二十七番)
はつかりのはつかに声をききしより中ぞらにのみ物を思ふかな
ほたる美を闇路ほのかに見てしよりきみが魂(たま)かと心添へり

恋歌対決。左はどこが恋の歌かわかりにくいが。初狩に行って雁の声を聴いたときの空を見て恋人を思ったという歌か?狩りの中で危ない感じだけど凡河内躬恒だったら詠みそうな気がする。右は当たり前過ぎるよう恋の歌だった。蛍火は恋が燃える代名詞だったような。『源氏物語』にも出てきた。当たり。この回は調子がいいぞ。凡河内躬恒の名前も覚えてきたし、相性がいいのかもしれない。ただ初雁も恋の歌として『源氏物語』に出てきているそうだ。初雁も情念だという。はつかりは狩りではなく雁だったんだ。

初雁は恋しきらなれや人のつ旅の空飛ぶ声しのき  光源氏

『源氏物語・須磨』

(歌合二十八番)
わが恋はゆくへも知らずはてもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ
恨みつつ恋ひつつ果てず限りなくゆくへも知らぬわが思ひかな

恋対決。これも左は『百人一首』にあったような気がする。右も恋の行方を詠んでいるのだが、正比古だろうな。当たり。右は左の本歌取りだった。ほとんど同じだが「逢ふ」と「恨み」が違うという。「恋二」ということだからまだ両思いに発展しない淡い感じなのだろう。やっぱ左の凡河内躬恒の勝ちではないか?「恨み」が入るのはかなり恋のベテランだろう。というか恋はもう散々みたいな。ちなみに凡河内躬恒の歌は『百人一首』ではなかった。でもやった覚えがあるんだが、関連項目で出てきたのか?

心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花  凡河内躬恒

『百人一首』

こっちでした。

(歌合二九番)
たのめつつあはで年ふるいつはりにこりぬ心を人はしらなむ
たのめつつあはで年ふる哀しきさは馴れしわが身の心にぞある

これも「恋二」対決だった。どっちかが本歌で、それを正比古が真似たのだろう。
左はやった覚えがあるような、ただこれは恋の歌じゃなかったような。まあ覚えがあるので凡河内躬恒で勝ちは正比古でいいかな。当たり。

(歌合三十番)
かれはてむのちをば知らで夏草の深くも人のおもほゆるかな
夏草の思ひ萎(しな)えしわが庭にはや秋立たむかかれそめける

夏草対決かと思えば恋四対決と詞書にある。夏草が繁って枯れていく様なのか?左は夏草の茂みが恋人を思う気持ちかと詠んでいるのに対して右は秋の心情だった。これは正比古っぽいな。秋と飽きの掛詞。当たり。今回は一つだけ間違えただけだった。凡河内躬恒とは相性がいい。名前も覚えたし。


俳句レッスン


川名大『現代俳句』から、岡本眸。それにしてもマイナーな俳人ばかりというか名前を聴いたこともない俳人ばかりだった。自分が知らないだけで俳句界ではレジェンドなのかもしれないが。

岡本眸は日常身辺の俳句が特徴か、有季定型を素直に読むという。俳句は「詩的な日記」であるという。それならば有季定型である必要もないと思うのだが。また文句ばかりだった。

桃ひらく口中軽く目覚めけり
雲の峰一人の家を一人発ち
畳目にまぎれて春の蚊なりけり
旅先の真つ赤な電気行火抱く

「桃開く」という言い方は熟して割れているのだろうか?なんだっけ、そういう桃のこと。『破瓜』という韓国文学を読んだけど、違う清順の『チゴイネルワイゼン』の桃。何を言っているのか?

雲の峰は夏の季語だった。見たいと思う。海岸線とかで見れたら最高だろうな。だからここは実際の峰にいるのではないのだった。独居老人の家を尋ねたのか?どうも母親らしい?句集『母系』掲載ということだった。それでリフレインが同じ一人身ということもあるのか?上手いな。素直にいい句は褒める。

ひとり旅なのか?孤独さが出ている。掲載者は淫らな発情的な印象を描いているが、孤独な情景だよな。

ここまでだった。次も女性歌人。稲葉汀子。祖父が高浜虚子だという。4Tからの俳号なのか本名なのか?虚子が名付けたような気がする。

今日何も彼もなにもかも春らしく
避暑の娘に馬よボートよピンポンよ
落椿とは突然に華やげる

いきなり心情句じゃないか?率直な表現として褒められる。これが定年の叔父さんではこうは褒められまい。

このブルジョアがと言いたくなる。今ではなんの変哲もない句だが。叔母である立子の句を本歌としているようである。

娘等のうかうかあそびソーダ水

こっちのほうは面白いけどな。CMの「くうねる遊び」というのを思い出す。

「落椿」も有名句があったよな。それに比べるとイマイチのような気がする。

こんなところだった。次は黒田杏子。若い時の写真は可愛い。平成の女性俳句のリーダー的存在だったのか?夏井いつきよりもお嬢さんという感じがする。

白葱のひかりの棒をいま刻む
磨崖仏おほむらさきを放ちけり
まつくらな那須野ヶ原の鉦叩
日輪へ発つ玉蟲の数知れず

この辺の人は日常・生活俳句なのだろうな。
日常から非日常へ。「磨崖仏」は観光名所なのか?「佐渡行き」の紀行句だった。ただこの句は想像句だという。一遍の短編小説のような。

「鉦叩(かねたたき)」が季語だった。虫だった。

黒田杏子は「アンノン族」俳句みたいな。ただそこに古きを尋ねる「温故知新」みたいなものがあるような。

続いて辻桃子。このへんは伝統俳句の系譜なのかもしれない。日常的なズレに滑稽さや戯れの新鮮な世界を描くとある。

虚子の忌の大浴場を泳ぐなり
うぐひすのケキョに力をつかうなり

「虚子の忌」は素人ぽさの演出か?俳人だったら「虚子忌(椿寿忌)」を使うだろう。ただ上五からの流れは大胆にして秀逸か?虚子も喜んでしまうだろうな。句会の挨拶句であるようだ。

「ケキョ」に力を使うとはまだまだ若い鶯なのか?優雅さよりも必死さが伺える。

映画短歌

映画短歌は『5月のミル』。晩春か初夏か?

『百人一首』は右近か。

上野正比古『百人一首と遊ぶ』は同じ趣旨のような、ただ上野正比古は本歌取りよりも歌合の雰囲気が強い。

わが命惜しからざれば汝(な)がつける忘れ草のや霧と消えなむ

右近の歌は男に忘れられた女が男に出した歌で(解釈として優しさか皮肉か分かれるのだそうだ)、正比古のはその返歌になっている。

忘らるる五月もすぎて六月のアナーキストは命も惜しくもあるかな


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