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芭蕉を崇拝している「俳句入門書」

長谷川櫂『決定版 一億人の俳句入門 』(講談社現代新書)

「五・七・五で詠む」「季語を入れる」「切れがある」等々の、俳句の約束事を明快に解説。この1冊で自在に詠める! 初心者から上級者まで必携の書。「朝日俳壇」、読売新聞「四季」等で人気の俳人による明快な俳句入門。凡百の入門書とは一線を画する、ユニークで有用性の高い内容です。

こだわりの俳句道場という感じで初心者向きではない。ただ芭蕉の例題が多く、芭蕉時代の俳句の考えを元にしているので、芭蕉の俳句の手引としても読める。例えば

古池や蛙飛びこむ水の音 松尾芭蕉

では、「古池に蛙飛びこむ水の音」ではなく、「や」で一旦切れているから「古池」は芭蕉の想像(心の中)の「古池」なのであって現実に目の前にある「古池」ではない。「古池に」とした場合は一物仕立ての俳句だが、「や」で切断されると二物衝動の句になる。蛙が飛び込んだ水の音を聞いて古池を思い出したということらしい。切れ字の効果は語彙とは関係なくセンスなのだ。でも、どれだけの人がその意味で読んでいるのだろうか?たいていの人は「古池に」と読んでしまっているのではなかろうか?恐るべき、切れ字「や」の効用。

それは近代俳句の(正岡子規が提言した)写生というより音楽という感じだろうか?最初に「切れ」の講釈も言葉の省略ではなく、間だという。カメラの切り替えのように考えていたが、間による場面変化なのだ。能の鼓のような効用か。そのリズムが散文ではなく、韻文なのだ。俳諧が連歌から来ているのは、そうした場の音楽だったからだという。その切れがあって、一物仕立てと二物衝動が出てくる。

季語については、新暦は一年を光陰矢のごとしというような直線的西欧思考ではなく、時間は循環しているとする季節ごとの展開として捉える(二十四節句、七十二候)。だから旧暦で思考する。また季語を使うことによって架空性(フィクション)の中に遊ぶということもあるようです。兼題の季語は、まさにその瞬間の一番いい時を想像するのだそうです。だからズレも生じる。本来ならば座(句会)でその時の季語を詠んで挨拶とする連歌からの始まりであるというのですが。

日本の暦

https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter1/s1.html

二十四節気(にじゅうしせっき)

https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter3/s7.html

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後ややこしいのが文語と口語、旧字体と新字体の考え方。新字体は敗戦後GHQが発音と表記を同じにするようにローマ字が導入されたことによって出てきた考え。いなづまをいなずまとする。それは大和言葉の稲妻と反することだから新字体は使わない。ちょうちょうもてふてふ。文語と口語の区別は、明治になって言文一致運動が出てきて話すように書くのが口語とされる。最近の語彙の乱れは口語で書くから文語体のように定式化されていないのでいろいろな言葉が入ってくる。短歌では、口語化の流れになっています。文語は難しいので、辞書を引くなりネットで調べるのがいいのかもしれないです。だから筆者が推奨するのは、文語+旧字体。

それでも17文字で季語がマイナスされるから、表現も限られてくる。だから新語(カタカナ)を使うことは駄目とはしない。まあ、短歌に比べて約束事が多いですよね。新興俳句はそのへんあまり限定はしないようだ。


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