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異界に置き去りにしてきた自然と人間の中で

『君たちはどう生きるか』(2023年/日本)監督
宮﨑 駿

宮﨑駿監督10年ぶりとなる長編映画。原作・脚本・監督を宮﨑駿が務める。吉野源三郎の同名小説からインスパイアされて生み出されたオリジナルストーリー。

予告篇もなかったので、映画の主題歌。宣伝しなくてもそうそうたる人たち(俳優とか)を使っているので、返って予め変な知識があるよりも、まっさら状態で見て欲しいという映画なんではないのかな。知名度は抜群なのだし、宣伝しなくても自然とみんな見に行く。そして話題が話題を呼んでという感じなのかな。村上春樹が久しぶりに長編を書いたというのと同じなのだろう。

それでネタバレというのは、原作とまったく違っていたということがネタバレになるのかな。ジブリ映画の総決算のようだったとか。映画としてはそれほど目新しさはなかったけど、この時代に監督が「君たちはどういきるのか」と訴えて置きたいことはあったのだろう。

まず感想はそれまでの宮崎駿監督の総決算のようでもあり、今回この映画を見て思ったのは柳田国男の影響をかなり受けているなと。ナビゲーターというべき「アオサギ」はトリックスターで、着ぐるみをきた天狗のようだった。烏天狗という日本の神話や民話に出てくるような。そしてその「アオサギ」が異界との導き役になっているのだ。どことなくコミカルな主人公の相反するキャラクターであり、それは亡くなった大叔父の使いというような。

大叔父が読んでいた本の中に吉野源三郎『君たちはどう生きるか』があり、それは祖父の時代に資本主義に乗って成したというその背景には戦争があって大資本家になった家なのである。それは日本の高度成長期と重なるわけで、その反対の人が読書家である大叔父なのだが、彼は現実でない異界に生きていた。それが異界物語として、例えば『千と千尋の神隠し』のような物語を紡いでいくのである。神隠しは、柳田國男の民俗学にも登場してくる。

そこに山の神のような大江健三郎だと森の神というのもがいるのだが、そういう精霊みたいな存在が古い家に取り憑いたということだった。それは柳田國男の「座敷わらし」のような民話に登場してくる様々な化身が、異界と現実界の間にあってそれは祖先というような伝承があるという話なのだ。

それが『君たちはどう生きるか』というテーマにもかさなってくる問いかけであり、この原作が闇雲に戦争の全体主義に進んで行ったという背景の中で書かれた小説であり、それは過去なのか今なのかいろいろ個人によって考えることがあると思うのだ。そうした問いの映画であることは、タイトルで示されているので、それがネタバレといえばネタバレだった。

原作との大きな違いは、原作は主人公のコペル君は父が亡くなって母親の手で育てられているのだが、哲学的な導き手として叔父さんの存在があり、またコペル君は友達関係のなかでもいろいろな学びがあるということだ。そこが映画とは決定的な違いで映画ではそれが自然の動物だったり「アオサギ」だったりするわけだが、原作の中にあるような強烈な体験はなかった。それは友達を裏切るということなのだが、そこは映画の主人公は自分の考え通りに進んでいくタイプであるわけど、自然の圧倒的な力には敵わないことがあり、それはそれまでの作品にも描かれてきたのだった。

もうひとつ戦時ということがあり、彼は疎開してきたのだ。その空襲で母を救えなかったということがあり、それがトラウマとして残っている。さらに父の工場は軍事工場で戦争に加担して大金持ちになっているのである。航空機に対するロマンは宮崎駿監督の中にあるもので、それが今回は悪しきものとして描かれているのか?映画ではそうでもないのは、やはり日本の高度成長期と重なっているからなのか。そこを批判する人が出てくるのかは興味深いところだ。

例えば原作の方は親友が豆腐屋の家内工業的な中小企業でそれが日本の経済を支えてきたロマンがあったのだ。それを表すのがモーターという科学の力であり、まだ吉野源三郎の頃はそういう科学が信じられてきた。そして思想の背景にもマルクス主義的にシステムが織り込まれているのだが、宮崎駿の映画ではそれが取り外されている。そして科学万能主義よりは柳田國男の民族学のような伝承としてある文化だったりファンタジーだったりするものが見え隠れしている。

それはかつての日本人の自然に対する接し方でもあったわけだし(人間が一番ではない)、それが異界に置き去りにされて現実的なものは欲望を満たすことだけになっているのだ。それは日本の高度成長もそうだがアニメ界もそういう反省があるのではないかと思った。


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