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存在の耐えられない彼岸花

都知事選の掲示板は、すべて立候補者が出ているわけではなかった。掲示板のポスターは規定はないのかな?ニュースになった掲示板を見たが、それはアダルトサイトの宣伝かと思ってしまった(QRコードがあったので、危ないサイトのように思えた)。

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例えばポスターに金がかかるのならあえてプリクラで張り出して受けを狙うとか(女子高生が注目しそうである)、なんか一部の政党が占領してしまうやり方はどういうものなんだろうか?最も町田で、公示日に出せなかった候補は、そこまでの組織力がないのだと思う。他の泡沫候補と言われている候補は、掲示板にも張り出せないのか疑問に残った。その意味で最初に張り出したうつみさとる候補の票数に注目したい。町田市民を無視するとどのくらい違うのだろうか?またポスター位置も小池都知事の隣という目立つポジションだ。それは「蓮舫」よりもいい位置にいるのではないか?「蓮舫」は漢字が難しすぎる。ほとんどの人が書けないと思う。むしろひらがなでアピールすべきだったように思える。

選挙もコンサルティングで違うと数年前に特集番組があったと思ったが、そういうところで政党と個人の差が出るのだろうな。

下書きの読書感想をアップした。忘れてた。『窯変 源氏物語10』の感想を書こうと思ったのだ。日記の方にアップしてあるのかな、下書きが無かった。「シン・短歌レッスン」と「シン・現代詩レッスン」は停滞していた。

図書館に一冊返却して一冊借入。町田図書館は借入が三冊なので余裕がある。ただ借りたいと思う本がなかなか置いてないのだ。積読本の山もあるし読んでも読んでも読み終わらない読書地獄だった。

昼から映画を予約していたので、それほど図書館にはいなかった。映画は『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家 2D』。3D上映もあるのだった。それはアンゼルム・キーファーの作品が巨大すぎて映画の枠内で見せようとする意図を感じた。実際に展覧会でも実物でその大きさに触れた方がいいとおもうのだが、カタログ的な映画で一応キーファーという芸術家を知ることが出来た。

「存在の耐えられない軽さ」。クンデラの本のタイトルだが、キーファーが逆のことを言っていた。我々は「存在の重さに耐えられない」ので軽さを好むというような。キーファーの作品は巨大で重々しいのだが、それは歴史の中にあるドイツにおけるナチスという問いを問い続けるからであった。ナチス的敬礼とかのポーズをするのは、その敬礼の意味を思い出させるためなんだろうか?逆に本来なら意味のない敬礼だったものがナチス的ポーズとして重さを孕んでしまう。そうした問いを問い続けることがキーファーの作品であるという。

例えば鉛で出来た本とか、衣服の固まった表現(新表現主義とされる)とか、軽さの反対にある重さについて。それはキリスト教的な救いという概念(もうひとつ羽ばたく羽と風のモチーフがある)と対置するものなのかもしれない。破壊というリリス。「エヴァンゲリオン」的だが、原初の悪魔は聖書に出てくる排除された妻(女)リリスであったというモチーフがあるのだ。それは悪魔主義的なゲーテ「ファウスト」を連想するのだが、キーファーの過去の記憶が悪魔主義的にならざる得ないリリスから生まれたということのようだ。

廃墟の森で囁く顔のないリリス像は、破壊の象徴であり、置き去りにされた悪魔(ナチス)なのかもしれなかった。そこにアウシュヴィッツで消滅させられた者の声が重なる。ツェランの詩の朗読とか。

死という問題は元来我々の隣にあったものだのだ。詩で死がテーマになるのもそういうことを想像するからかもしれない。それは現実ではなく超現実的世界なのだ。概念(イメージ)と言ってもいい。それをキーファーは表現していく。

『詩の本〈1〉詩の原理』で西脇順三郎が「私の詩論」で語っていたこと。ニーチェの「力(権力)への意志」があり、我々はそれを認めないところから声を発するというような。それが死をイメージする超現実的世界なのだという。それは詩が想像の世界に生きているからだ。何よりもそれは「思考の自由」である。ボードレール「コレスポンダンス」ということである。

それは詩が想像の世界に生きているからだ。何よりもそれは「思考の自由」である。ボードレール「コレスポンダンス」ということである。

そこからシュールレアリズムは出発するのだが、我が国は俳句というものがあった。不可解な結びつき(二物衝動)は、謎を残し、そこに解釈という読みが生まれる(他者性)。象徴主義はそのような問いのイメージなのかもしれない。

その時に解釈という答えを一つに決めるのではなく絶えず対話があるということだった。ボードレール「コレスポンダンス」というのは重要な概念であった。例えば井上陽水の「ダンスを上手く踊れない」のように。

「存在の耐えられない軽さ」だろうか?

今日の一句。

存在の耐えられない彼岸花 宿仮

今日の一首。

リリスの
歌と踊りを
聞く声に
彼岸花咲く
生と死のあいだに


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