見出し画像

あぢさゐや丸くなって萎みけり


紫陽花

今日こそは目次を付ける。ネット検索して、最初に設定してないと出来ないようだった。これで出来ているはずだが、また紫陽花だった。

紫陽花や雨に流れて日々の花  宿仮

大したことがなかった。最初はこんなもんだ。

失敗したこと、映画批評とか

久しぶりにコメント付けたら敬称付けるのを忘れてしまった。コメントの付け方って、けっこう微妙なところがあると思うのだがまず挨拶から入る。肯定的なコメントをする。親しき仲にも礼儀あり(もともと親しくないのか?)というのがあるが、最大のミスをしてしまった。コメントは後から訂正できないんだよな。そして返信までしてもらったのでそのままだった。今更削除するのも変だし。スミマセンでした、潮田クロさん。

あとなんで慌ててコメントしたのかと言うと、私も過去にネタバレを指摘されたことがあって、そんなことプロの書評家でもないし、こっちは無料で書いているのにと思って、もうこれからもネタバレしますんで読まないでいいです、という大人気ない対応をしてしまった。noteではないんだがとあるSNSで。それからあまりそこも書き込むことがなくなったのだが、どうすればいいのか考えることはあるのだった。宣伝っぽい映画サイトとか点数低い場合にはネタバレするとか、noteには書かないとかしているのだが、プロフィールにネタバレしますと書いておけばいいのかなと思ったり。それにしても映画サイトも点数が高いほうがスキの数が多くなるのだった。昨日『マッドマックス・フリオサ』では大したことを書いてないのにスキの数が11で『猿の惑星』は未だに5スキだった。落差がありすぎだろう。そういうもんなのか。今の時代は批評よりも良いところを見い出せというのだった(ほとんど広告なのだと思う)。

読書

今月は低調だった。『魔の山』を読みきらねばならないので、それを優先している。今、334.pでやっとヨーアヒムが戻ってきたところ。軍隊に入りたくて外界に戻ったのだが、そこで病気を悪化させてしまったのだ。最初ヨーアヒムがハンズを迎えるという逆の形になったのだが、今回はヨーアヒムには母親も付き添っており、けっこう絶望的な状態なのだった。このあとヨーアヒムは死ぬのだが、ハンスは死は尊厳あるものと考えており、分身であるような従兄弟が死んでいく覚悟で山に上ってきたので、思想の変化が起こるのだった。ここはけっこう重要な場面だと思う。トーマス・マンが戦争になってから思想を変えたこと(それまでは軍国主義だった)の現れであるからだ。

『日本詩歌の伝統: 七と五の詩学』。三章で最初が古典の「秋の夕暮れ」論だった。三夕の歌が、それまでの歌とどう違って和歌の手本となるように褒めそ冴えたのか。この歌によって日本人の「秋の夕暮れ」の意味するスタイルが出来上がるという。それは言葉が先に日本人の心情を言い表すというような情景論だった。そこに和歌を読む時の古典的教養が、日本人しか理解できないという論理になっていくのだが、それは和歌を学んだ人じゃないと理解できないと思うのだ。むしろこうして論理的に説明されたほうが理解出来ると思ってしまった。それはもともとある日本人の情緒ではなく文化的なものなのだ。

折口信夫「歌の話」もそういうことなのかな。ここではオリジナルティ(個人)と物真似歌の違いを論じていて、古典に学ぶにしても現在を取り込まにようではいい歌とはいえず、それはほとんど古典の物真似にすぎないと言うような。そこで様々な歌の改革者をとりあげて和歌の歴史みたいなものを語る。もともと青少年のための講義であったらしいのだが内容はかなり折口信夫の歌論ともいうべき本なのかもしれない。

物真似ではいけないということなのだが、最初は倣うということから入って行かなければどうにもならないだろうと思うのは一緒なのかもしれない。その後のオリジナルティの出し方だよな。

今日の一句、今日の一首

あぢさゐや丸くなって萎みけり  宿仮

「あぢさゐ」という古典的表記なのだが、古典に寄りかかってばかりだと萎んでいくものだという句。オリジナルティは難しいよな。

ゆう月夜 ほの見え初めしあぢさゐの、花も、まどかに咲きみちけり

折口信夫の口語(口承)的解釈は句読点や空白で韻律を作っているから定型の韻律との違いを意識する必要があるのだ。

ゆう月夜
ほの見え初めしあぢさゐの
花も
まどかに咲きみちにけり

というような行分けになるのかな。夕月と花が対応していて、「あぢさゐの」がまどかに(丸く)咲いているという喜びみたいな歌なのだ。それまでの紫陽花から感じる雨の憂鬱さとは違っている。これは写生ではなく、こころの中を読んだ歌だという。

マスク取り
紫の唇(くち)微笑んで
花の乙女や
吸血したる

目次は最後に設定すればいいのか?

失敗、最初で設定しておくのだった。後からでも設定出来るのか?今までそれを知らないだけだった。

目次の設定にこれだけの時間がかかるのだ。それは改定前は設定しなくても出来ていたのになんでそういう設定になったのか理解出来なかったのかもしれない。例えばこの日記の長さなら目次なんて設定せずに読ませることも出来る。あとから変更させるのに、改定前だと面倒だったのが、改定後は一発で出来る利点があるからだろう。そういうことに気が付かず出来ないままに随分と長い期間を過ごしてしまったが、そういうことは往々にあることなのだ。それだけ新しい環境に慣れるのは時間がかかる。

例えば聴き逃しでプレイリストがすぐに見つけられない問題。たぶんNHKにも苦情があるのか、再三プレイリストの場所について説明があるのだが、なかなか難しい。そもそも今の人はプレイリストとかあまり必要なくながら聴きしているのか?私もそうだけど気になった曲はあとから調べたいと思うので、プレイリストを参照する。日記に書く場合とか便利だった。

例えば「クラシックの庭」でショパンのピアノソナタの曲を聴いていいと思ったのだが、誰の演奏だったのか調べるのに、ホームページに入って楽曲情報から調べるのだった。マリア・ジョアン・ピレシュ(ピアノ)のショパン「ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 作品58」だと知ることが出来る。その場所になかなかたどり着かいのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?