「正義」のレールは正しい道なのか?
『正義とは何か-現代政治哲学の6つの視点』神島裕子 (中公新書)
アメリカの政治哲学者ロールズは『正義論』で、公正な社会を構想し功利主義を批判、社会契約説を現代から再構成した。民主主義の原理ともいえるその理論は、社会倫理の議論を捲き起こす。国際社会の中で、自由、権利、財・資源、義務は、どう分配されうるか。本書では、サンデルの立脚地であるコミュニタリアニズムなど六つの代表的視点を取り上げ、現代の課題に思想家たちがいかに応答したかに迫る。現代正義論の入門書。
結局、ロールズ『正義論』の枠組みの中で論じられる。そこから6つの思想展開「リベラリズム」「リバタリアニズム」「コミュニタリアニズム」「フェミニズム」「コスモポリタニズム」「ナショナリズム」。しかしロールズ『正義論』から大きく外れることはないと見ます。レール上の分岐でしかないような。その先にカントの「形而上学」の思想があることがわかりました。しかし、カントの「形而上学」では啓蒙されない世界です。レールそのものを疑う。レールのない世界に生きている。「正義」というシステムの問題だと考えてしまうのです。
リベラリズム
ロールズ『正義論』正義の二原理
第一原理:「基本的諸自由」政治的自由、良心の自由、信教の自由、言論・集会のの自由、人身の自由、個人的財産の権利、恣意的な逮捕・押収からの自由。
以上は「平等」であることを要求する。「言論の自由」は誰かの「人身の自由」を守るために制限される(ヘイトスピーチ等)。社会のメンバー全員がシステムの対等な権利を有する。
第二原理
「格差原理」は、「最も不遇な人々」に「最大な便益」(社会的最低限)の生活を保証する。
日本国憲法第14条
「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」
実際の日本社会では、教育機会平等等に問題がある。シングルマザー家庭での教育・支援?
社会的共同の産物としての基本的諸自由の分配について論じている。
しかし、ローズは第一原理は、第二原理より優先するとした。「自然権」に基づいた「不可侵なるもの」。
公正としての正義のルール、「無知のヴェール」という思考実験。各個人の情報(出身地、肌の色、家柄,資産、才能)の遮断によって平等性を求める。平等を求める倫理的な装置。
カントの自由論「自律」してルールを遵守する態度?カント的構成主義。
ロールズ以降のリベラリズム
アマルティア・セン「基本的ケイパビリティ(潜在能力)」。ロールズは「基本財」の原理。
ロナルド・ドォーキン「資源の平等」
ロールズはアメリカの「正義」か?
リバタリアニズム
ジョン・ロック『統治二論』
加藤節『ジョン・ロック―神と人間との間』
リバタリアニズムの四類型
アナーキズム、『貧者の哲学』プルードン、国家主義は反道徳。
ロスバードの無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)、私的所有権を根本価値にとする。植民地主義?自由競争。
「最小国家論」ノージック↔「拡張国家」ジョン・ロック
「左派リバタリアニズム」ヒレル・スタイナー→「福祉リバタリアニズム」ジェイソン・ブレナン
ソロー「森の生活」ヒッピー世代?ノマドの人。ホームレス?
コミュニタリアニズム
「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデルがここに出てくるとは思わなかった。ロールズ『正義論』批判ということだが、「正義」が善に優先するのではなく、キリスト教的道徳に基づくものならば普遍的共通善を得られないとする。「共通善にもとづく政治」哲学は共同体的なリベラリズムを目指すという。その指針となるのがアリストテレスの原理=形而上学の善という。
果たしてキリスト教原理の道徳をアリストテレス的原理に変えたところで「正義」を得られるのかという疑問、「正義」に関わる事自体が誤謬を生むのではないか?誰のための正義になるのかということです。
そこでよくサンデルが上げる「トロッコ問題」について考えます。線路の岐路の先にいる一人対五人の人間の命を預かるポイントの人です。「5人を助けるために他の1人を殺してもよいか」とする功利主義と人の生命の数による差は無いはずという義務論。その間でハンドルを切らなければならないとしたら、どっちを選ぶべきかという仮想問題。
むしろこれはどっちを選ぶかと強制されたレール上のシステム論なので、どっちにでも大した問題ではなく、むしろ問われるのはレール上の安全システムである。その不備が指摘されずに、個人に責任を押し付けるのはフェアではない。むしろ問題出題者を岐路に立たせるべき問題で、我々はそこに立たなくていいのです。なぜ彼らはそこに立つのか?サンデルの教えを乞うハーバード大生だからです。最初から仮定の話はサンデルによって答えを導かれている。
それは形而上学の仮定の問題に過ぎない。形而上学というレールをひいたのは誰か?分断はそこにある。我々は芥川龍之介『トロッコ』でも読んでろということだと思います。ただここでの「トロッコ」は電車であって、もはや手押し車の「トロッコ」ではなかったのです。企業側(あるいは共同体的な国側)の問題を我々の問題として納得させるやり方は、果たして正義なのだろうか?
アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』の「物語的な歴史という文脈」も誰のための物語なのか?ということに疑問符を付けない限り、権力側に委ねてしまうのは危険です。日本主義という恣意的なものが教育やシステムの中で肥大した結果が排他主義的になっていく。物語から外れた者は、排除していくシステムだからです。
ここでジェーン・オースティンが出てくるのは古き良きモラルとしてなのか?『高慢と偏見』のモラルが果たして、全世界に通用するのかはわからないと思います。なぜならそれはイギリス文学だから。カミュ『異邦人』の文学ではないのです。
グローバル化が進む中で国境を超える共同体論は可能か?という問題提起が出てきますが、サンデルはアメリカ的公民の立場での国家論としての共同体論を進めていきます。アメリカの「正義」なのです。「個人主義のリスク」を取っている。一の中の多というアメリカの多元主義だというマイケル・ウォルツァーの思想が出てきます。「アメリカ人」であることこの「正義」です。
フェミニズム
フェミニズムはそうした体制(システム)の中で排除されてきた女性を扱います。男性原理でのシステム論から見た女性蔑視の現代性議論ということです。
カント的フェミニズムは、女性自身という目的を全面に出すとこれも排除になるというので、個人を他者に対しての手段とする共通項を得るための「正義」としてカントの形而上学が取り上げられる。あまり代わり映えしないのは、これもロールズ『正義論』から出発しているからです。良きジェーン・オースティンであれみたいな。
リベラル・フェミニズムはジェンダー(性差)のない社会を目指すスーザン・オーキンは、ロールズからも称賛を受けています。結局は「正義」原理に基づくということになってしまう。
ケイパリティ・アプローチ。そもそも社会契約説が女性を排除するシステムだというのでケアーの思想を取り込んだフェミニズムで、マーサ・ヌスバウムが上げています。ケアーの思想ですかね。アリストテレスに基づくというのが「正義」を出発点にしている。「新アリストテレス」主義ということなのですが、混乱します。
コスモポリタニズム
トマス・ポッゲ「絶対的貧困」に置かれた世界とロールズ『正義論』から展開する。グローバルな貧困。
世界市民というカントの思想。形而上学的に考えると最終形態はカントにぶち当たる。ただカントを疑問に思うのは「形而上学」で啓蒙されてきたのかという問題です。「形而下」で生きてきた人間、もっと本能的なものを求めているのではないか?という疑問。結局啓蒙されないで「形而上学」が絶対となると全体主義と変わらんじゃないかということです。
それでロールズ『正義論』から出発して、そこのレール上の分岐点だけのような気がするのです。功利主義だけが見えてしまう。
ナショナリズム
ナショナリズムは逃れられないのか?ロールズ『正義論』の先には(国民)国家主義が待っている。
リベラル・ナショナリズム
ネーション。ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体」。
デヴィッド・ミラー「ネーション」を主体とする社会正義論。
「愛国心」の問題。誰のための愛国心なのか?そもそも愛国心を持たなければいけないのか?例えば日本よりアメリカ好きとか。アメリカ支配下の方がいいとする人もいる。
むしろ人は欲望に生きているので、何に愛を感じるかは図れない。正義が貫けない理由は、愛が固定できないから。愛がないのか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?