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麦秋や世界の果てに頭垂れ

麦秋。言葉の面白さというか、なんでもう秋なんだと思ってしまうが麦はこの時期に収穫されるのか。小麦の生産量が日本は約1000トンとすると上位10の国々とは桁が一桁違うのだ。一位の中国は二桁違っていた。米でも一位は中国で一桁違っていた。日本は10位で約一万トン。わかりやすい。米の十分の1が小麦だったんだ。

ただ食料自給率は中国は100%ではなく97%になっていた。それでも日本は4割ぐらいだから、どうしようもないのだが、だから中国が危ないと叫んでいる評論家もいた。日本はもっと危ないというか、それを通り過ぎていたもはや考えることさえ出来ないのかもしれない。まあ、アメリカとかカナダがいるからいいのだろうか?そういえば、ほとんど輸入品ばかり食べているかもしれない。

ただ最近過剰摂取ぎみになっているのは、運動をしないからなのか?週一日ラマダンじゃないが絶食日を設けた方がいいんではないという気持ちになってくる。それでも過剰な食料事情は日本にはあるのだろうか?

そういえば昨日小学三年ぐらいの男の子が真剣に読書しているので、その本が気になったので見てみたら『沈黙の春』だった。環境破壊はのグレタ・トゥーンベリとか若い人にはブームなのかな?もう絶望しかないような気もしてくるが。考え方として未来ある者にあまり悲観的な気持ちになってほしくはないというのが保守層の思考なのだろうが。

読書。『魔の山』セテムブリーニとナフタの戦争論争は難しいというか、セテムブリーニも条件付きで戦争は止む得ないと考えていたのか?ナショナリズムと自由主義という思想があるのだが、当時(第一次世界大戦)は戦争肯定論が主流だった。マンもほとんどそうだったらしいが、それで兄のハインリヒと対立したので、その影響化にあるという。セテムブリーニが兄の立場でナフタがマンなのだろうか?今も戦争は必要悪だというような考えが主流になっているのか。だから軍隊は必要だというような。

その中にハンスという青年がいて、モデル小説になっているのだが、間違えていけないのは、マン=ハンスではないのだった。モデル小説だから当時のドイツが戦争に進んでいった理由を明らかにしたいのだと思う。だからセテムブリーニの自由主義は当時のアメリカ的思考の自由主義かもしれない。ナフタは神秘主義者の国家論だった。選ばれし皇帝(教皇)による理想国家のような思考がやがてナチズムに繋がっていく。

読書は低調で、昨日は図書館でラジオを聞いていた。「飛ぶ教室」が『源氏物語』と短歌特集みたいな感じだった。今の流れなのか?高橋源一郎はリベラルで歌人の永田和宏は保守的なので、その微妙な差異が面白かった。天皇制と短歌とういう突っ込んだ話になりそうだったけどならなかったな。やっぱそこはNHKだった。

映画『辰巳』は面白かった。映画好きには勧められる映画かな。ただハリウッド映画とか好きな人はスケールが小さいかもしれない。

もともと日本人はそういうスモールさだったのだと思う。生活や思考は。それがアメリカの大国主義に飲まれて、そうした世界とか思考せずにはいられなかったのか?世界の果てだと思えばいいんだろうけど、住んでいる世界が中心になるから。

麦秋や世界の果てに頭垂れ  宿仮

短歌は大きな世界よりも小さな世界で、全部わかるような歌は駄目だという。

麦秋の
頭垂れて
世界より
ラマダンしない
デブになりつつ

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