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金木犀まどろみ続け夢の中

朝金木犀の匂いで目覚めた。窓の下に金木犀がある。Twitterでも金木犀が咲いたという話題がTLで流れてきたけど。そういう同時代性。

ただ金木犀の匂いは催眠効果があるのか、うとうと寝過ごしてしまいそうになる。なんとか映画を予約していたので、外に出れたのだが。今日はどうなんだろう?金木犀で一句。

金木犀まどろみ続け森の中  宿仮

昨日の日記は過激すぎたのか、スキが一つしか付かなかった。その前は10個以上ついたので勘違いしていた。今日は規定路線に戻して通常日記にしよう。

昼前に出かけようと思ったらスマホが充電していなく一時間ぐらい充電しようと読書していたら眠って午後ニ時過ぎに目覚めた。慌てて図書館に行くつもりが、図書カードと映画館のポイントカードを忘れたことに、駅前で気がついてそこから家に戻った。読書。『戦後短篇小説再発見13』 (講談社文芸文庫)から円地文子『耳瓔珞(みみようらく)』題名はよくわからんよな。瓔珞は仏教用語のようだ。

うっかり寝過ごして往復30分ぐらいだからまた戻って電車の待ち時間など一時間ぐらい時間をロスしてしまい図書館へ。

桜木町を降りて、「野毛ちかみち」の地下道をくぐり抜け、野毛小路を通り抜けて、野毛坂を登り、横浜中央図書館に到着。返却本と予約本を受け取るだけになって映画館へ。

予約本はレベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』散歩の達人みたいな本か?

伊勢佐木町でぶらぶらしたかったのだが、すぐ映画館へ入った。まだ一時間以上あったのだが読書タイム。『失われた時求めて 10』を150p.ぐらいまで。なかなか進まない。

電子書籍は、後藤明生『笑いの方法 あるいはニコライ・ゴーゴリ』。ゴーゴリの笑いは「風刺」ではなく、自らの語り(文体)による登場人物との関係性の喜劇なのだとする。難しい話だがゴーゴリに宛てた「ペリンスキーの手紙」はゴーゴリの作品を社会風刺と捉えて手紙でのやりとりでゴーゴリが地主階級や宗教を擁護する保守反動と捉えて非難した。

しかしその読みはイデオロギー的なもので批評としては旧来の作家論であるのだ。ゴーゴリの作品理解をイデオロギー的に読んだペリンスキーの社会的イデオロギー(ドストエフスキーがそれを読んだために逮捕された革命思想)解釈であった。

最近のロシア・フォルマリズムのゴーゴリ批評からゴーゴリを読み直し、それがゴーゴリの方法としての笑い(喜劇)だとする後藤明生は、ゴーゴリ『外套』から『挾み撃ち』を書いたのだ。まさに開かれた文学。イーグルトン『文学とは何か』のいいテキストになっている。

そう言えば大岡信『萩原朔太郎 』(ちくま学芸文庫)を読んでいるのだが、こちらは「ニュー・クリティシズム(新批評)」だった。萩原朔太郎の詩に古来の伝統的な精神性を読み取ろうする。

詩や短歌の韻文は、そういう経緯に成りやすいのは、詩歌が戦時中戦意高揚のために使われたこと。それはゼレンスキーがスピーチで詩を引用したり、毛沢東の長征の詩などイデオロギーとして利用されやすい。今回の安倍元首相の国葬でも弔辞で短歌が引用されたという。そういうエモーショナル(感情的な扇動)な危険性は理解しておくべき。

それは電車広告で詩が引用され、それが益社団法人ACジャパンの日本広告機構だったりする。保守派のイデオローグを例えば家族主義から家父長制へと広告することの手口となっているのだ。金子いすゞの詩が使われるのも、そうしたものなのだ。ここを少しは理解してもらいたい。

だから短歌によるテロリストというのは、そういうことに対するプロテストとして有効だろうと思うわけです。実際にテロリストとなることは出来ないし。と昨日の日記の言い訳。

映画。『ロックン・ロール・サーカス』。これは良かった。あとで感想書きます。


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