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プルースト没後100年

『失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ』マルセル プルースト  井上 究一郎 (翻訳) (ちくま文庫)

今世紀初頭、病弱の話者による幼時の回想に始まる。コンブレーの散歩の二方向、スワン家とゲルマント。スワンの恋をはさむ全篇の序曲。

『プルーストと過ごす夏』という評論集を去年読んでいたのかな?『失われた時を求めて』は、二回目のチャレンジで高遠弘美訳で6巻まで読んだがそれ以降訳がでていないという。それで全集を大人買いした(これも20年ぐらい昔だと思う)ちくま文庫をまた読み始めたのだ。今年こそは全巻読破したいものだ。プルースト没後100年だという。『The Proust album』も出ています。


第一部 コンブレー

プチ・マドレーヌのシーンは過去の記憶を呼び覚ます。最初は紅茶なのに、叔母が出してくれたのはぼたいじゅ花を煎じた茶になっていた。菩提樹は釈迦が悟りを開いた樹木で、花開くイメージも記憶が開いていくイメージと重ねているのかもしれない。釈迦とは逆で煩悩を呼び覚ましているのだが。ぼだいじゅ茶は嗜好品よりも薬用で、子供には苦いのでマドレーヌを溶かして飲みやすくしてくれたのかと思った。あと、語り手が子供時代は男の子でも髪を伸ばして女の子の格好をさせていた。雌雄両性の神話時代。ケルト人の信仰についても語っている。精神=魂について語っている。

ちくま文庫の第一巻読み終わって光文社新書『文学こそは最高の教養である』のプルースト『失われた時を求めて』の章をよんでいたら、「プチッド・マドレーヌPetite Madeleine」は帆立貝のことで大文字にしていることに意味があって、「マグダラのマリア」を表しているとか。帆立貝は性的な意味も含んでいて、ボッティチェリの「 ヴィーナスの誕生」も連想します。

語り手の幼少期時代、一人で寝るのが怖いママが恋しい時代。下では大家族の団欒に客が来る。このスワンという男がのちのち注目される人物なのだ。

語り手の時間感覚が飛躍するので理解するのに苦労する。幼児期のママの記憶。マザコン野郎だった。で、寝ないで母を向かいに行く時に父に見つかって、怒られるかと思ったら「坊やと一緒に寝て上げなさい」と言われる。語り手は喜ばないで、母の思惑(一人で寝る良い子)を裏切ったのだと悲しむ。複雑な語り手です。

ジルベルトのプラトニックな愛は、ベルゴットの尊敬からイメージされた少女で、後に女優の話に繋がっていきます。語り手はイメージの世界の住人ですね。

一番興味を引いたのはヴァントゥイユ(作曲家)の娘が、死んだヴァントゥイユの写真に唾を吐くところ。サディズムとある。レズビアンの相手の女性がやるように言ったような。ヴァントゥイユは語り手の叔母たちのピアノの先生だったので語り手のよく知る人だった。娘は不幸な娘扱いですね(結婚せず子供を産まなかった)。悪とは言わないけど芸術的な悪と。語り手のママも非難している。当時の社会的な女性の立場として、悪のレッテルが貼られるのがヴァントゥイユ嬢とスワン夫人ですね。

第二部 スワンの恋

ヴェルデュラン夫人のサロンにスワンが入り浸る。ブルジョア階級のサロンでスノップ(スノビズム)と盛んに語っている。ヴェルデュラン夫人のサロンをスワンに紹介したのは彼女だった。スワンは始めはオデットよりも絵を売ることを考えてサロンに潜り込んだが、それがオデットの策略だったような。そこで音楽家ヴァントイユのソナタを聴く。絵を売ろうと思ったら音楽にやられたのでした。

オデットがスワンを誘惑するテクニックは、ジャポニズムの影響がある。シガレットケースを忘れたスワンにメモ書きを渡して、和歌のような気持ちを発露する。

「どうしてあなたのお心もこれと一緒にお忘れにならなかったのでしょうね。お心ならば、こうしてお返しはなかったでしょうに。」

これ和歌(短歌)にできるような気がします。

あと花による喩えでしょうね。カトレアとかでイメージ付ける。カキツバタみたいな。このへんのテクニックは日本の古典から学んだのでしょうね。「カトレアする」の合(愛)言葉は大人の恋愛だった。

スワンは、古典主義者というかヴェルデラン夫人のサロンは芸術を理解しないスノッブの集まりだと思っていた。しかしオデットに惚れてしまう。ココットだと思っていたのも(愛人)にできると思ったからだ。でもオデットは然るべき出の筋の人だった。それでフォルシュバル(然るべき出身の貴族)の愛人かもと疑ったが、スワンの勘違いだった。

オデットに対する比喩で、「エウリュディケー」(ギリシア神話「オルペウスとエウリュディケー」)というのがある。オルペウスの冥界下りを当時のパリとして描いているのだ。スワンがオルペウスでエウリュディケーのスワンを探す。

スワンがオデットに心寄せるのは、ボッティチェリの描いたチッポラの絵によってだった。そのチッポラの頬をオデットに見立てて愛撫したいと思ったのだ。不順な動機。オデットに対して馬鹿な女とある部分蔑んでいた。でも恋の虜になってしまった。オデットを囲うと思っていたら囲われてしまった。ミイラ取りがミイラになった話。ちょっと滑稽な部分がスワンにある(コンブレーで大叔母におちょくられる)のはそういうことだった。

スワンがオデットと恋におちたのは、ヴァントゥイユのソナタが二人の「愛の国家」となったからと書かれている。「ヴァントゥイユのソナタ」は、ヴァイオリンとピアノの為のソナタだが、サロンではピアノ独奏。ヴァイオリンのパートをピアノで弾いたのか?

サン=サーンス 「ヴァイオリン・ソナタ 第1番」とか言われているが、サロンのある夫人の感想に「コックリさんをやった時のような」と形容されていて、それは霊的であるということ。音楽が絵画と違って、理知的であるよりは情念的であるということ。

音楽は演奏されたと思ったら消えていく。過去(死)と結びつく。オルペウスの隠喩がスワンと重なるのは、それが死の快楽だから。オデットのいるパリは、スワンを悩ます冥界なのだ。

音楽のそういった経験は、誰にもあると思う。青春時代に聴いていた音楽の二小節聴いただけで、全体像が浮かび上がる。そこだけで涙してしまう。例えばジャズのスタンダードで「You Don't Know What Love Is(あなたには恋が何か分かっていない)」という曲を、「ヴァントゥイユのソナタ」に思い浮かべてしまいました。

第三部 「土地の名___名」

「スワンの恋」がどうしようもない大人の恋愛ならここで語られるジルベルトの初恋はまだ幼い恋だ。スワンは、ジルベルトの父として認識されるがスワンの母は、スワン夫人として憧れに近い気持ちを抱く。そしてジルベルトの幼い恋もベルゴットという作家の憧れと共に増幅させていくのだ(語り手が小説を意識し始めたのだろうか?)

最後で馬車から自動車へ、帽子が流行り、ドレスもぴっちりしたものになっているのは、シャネルの時代が来たということ。映画『ココ・シャネル 時代と闘った女』を見て、そういう転換期だった。語り手が憧れていた古典時代は過去に遠ざかっていく。



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