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月蝕は禍の始まりなのか?明日です。

日記が遅れた。短歌レッスンをやっているのでもう日記をアップしているのだと思っていた。この日記の役割はまとめと今日の予定ぐらいで、たまに話題が止まらくなることがある。弘法の筆の誤りではなく、宿仮のキーボードの暴走ですね。これ短歌に出来ないかと考えてしまうのが最近の日常。もう歌詠みですね。

「うたの日」はいつも通りで、それでもやっているのは唯一歌が詠める場所だからだろうか?まあ昨日はいろいろ投稿もしてみた。NHKは期待できないのだけど。かろうじて俳句ポストが可能性あるかなという程度。短歌はまだまだだと思う。「うたの日」で薔薇を得る実力になるまでは。

読書は短歌本ばかり。『ねむらい樹vol.1』は最近の現代短歌の動向を知るのにはいい本だった。

小林恭二『短歌パラダイス―歌合二十四番勝負』を読み始め。「歌合」は歌人の団体戦で、判定者が白黒付ける。それ判定に文句を言い切腹したとかいうこともあったのだ。そのぐらい馬鹿というか野蛮というかバーバリアンなんだと思う。もともと歌人は呪術者であったわけで天皇に支配されるまでは、異教徒のバーバリアンだったのだ。その血筋が騒ぐのである。現状に満足していては、詩人と言えるのだろうか?世界を変えたいのだ。

富岡多恵子『釈迢空ノート』で釈迢空が伝統短歌の歌詠みだと思っていたら斎藤茂吉と対立していたのだった。彼の短歌は、様々な試みがなされている。内容ではなくその形式で。釈迢空が都会の歌人として、影響されたのが石川啄木みたいだ。最初に詠んだ詩か短歌だったが、それ以来読んだことがなかったな。高校時代だった。それで最初の詩を書いたのだっけ。石川啄木は文語だったから、高校生には難しかったのだ。そこから小説読みになってしまったし。

斎藤茂吉も塚本邦雄『茂吉秀歌『赤光』百首』を読むと異端歌人だったわけだが、それは塚本邦雄の思いが込められているからだろう。解釈の問題。印象批評だから茂吉の歌というよりそれをアレンジした感じだ。精鋭的な歌ばかり出てくるのは確かなんだけど。

散歩しなければ。鎌倉は予定している。今週のどこかで。田村隆一『ぼくの鎌倉散歩』を参考に。月蝕が明日なんだよな。明日にするかな?


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