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「さらば友よ」絶望の日にマッチ擦る

相変わらず喉が痛い。風邪は良くもならず悪くもならずというところか?昨日はアラン・ドロンの映画を二本観て、読書も少々、たいてい寝ていたのだがマリア・ピリスの「モーツァルト・ピアノ・ソナタ集」を聴いていた。特別にマリア・ピリスが好きでもモーツァルトが好きでもないのだが、モーツァルトを聴きたくなって、Amazon Musicで最初に出てきたのがピリスということだった。以前もこのアルバムはいいと思ったことがあった。マリア・ピリスのちょっと影がある感じだろうか?モーツァルトはそれより楽天的というか、やっぱ天才ピアニストでひけらしタイプで、友だちいないんだろうなという感じが、今の自分の気分と合うのだった。実際はどうだかわからないが、この時代というかピアノ・ソナタをやっているときはピアノだけが友だちなのかという感じで孤独でもなく一人でもくもくとピアノを弾いている感じがする。あとで『レクイエム』とか聴くとそうでもないんだけど。「レクイエム」は対象があるわけで、それが依頼されたものであれ、キリスト教に向き合ったものであれ。ピアノ・ソナタはそういうのがあまり感じられない。いくつか人に捧げられた曲とかあるのだろうが、それさえもモーツァルトのイメージされたもので影響を受けたとはなしに一エピソード的な曲なんだと思う。何故そのように感じるのか?最近自分が人と違うなと思うことに孤独耐性があり、なんで孤独をそんな絶望のように感じるのだろうか?と思うことがあり、モーツァルトがただピアノに向き合うその姿に共感を覚えたということかもしれない。悲しい曲なんてないのだ。ただ寂しい曲はあるのかもしれない。

そうだ、マリア・ピリスのこれぞ、絶望の表情というのがYouTubeで上がっていた。

読書は『曇る眼鏡を拭きながら』は斎藤真理子とくぼたのぞみの往復書簡で手紙だから読みやすく、いろいろふたりが翻訳している文学のことを聞ける。翻訳が一つの聞き書きという藤本和子の話から面白かった。翻訳はコンテンツ(文脈)が大事という。直訳の正しさではなく、日本語でどう伝えていくかなのだ。二人の翻訳本を読むのが多いのもそういうことなのだろうと思う。

くぼたのぞみは直前にクッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代』を読んでいたこともあり、大いに感心するところがあった。書簡を読んでまた思い出すところもあったりして、例えば「少年時代」でクッツェーの母が自転車に乗ることに挑戦したのを、彼と父は笑って(女はそんなことをするもんじゃない的な)いたのを後になってクッツェーは後悔しあのときの埋め合わせはしたいと決意するのだった。母親に対してのアンビバレントな感情が描かれていて、そこも良かったかなと。

谷岡知美『アレン・ギンズバーグ』を読み終えたので寺山修司『人生処方詩集』。ケストナー『人生処方詩集』を真似たものだがケストナーは自身の詩だけだったのに、寺山修司は詩歌のアンソロジーとなっていて、有名どころの詩も出ていて詩の入門書にはいいかもしれない。ただ寺山はフランス象徴詩までなのかシャンソン的なものはでてくるが外国詩が少ない。日本人の現代詩までなのか、中野重治の「歌」(歌のわかれの詩か)吉本の詩とか知らなかったので興味深い。日本の近代詩から有名どころが掲載されているのがいい。ただ歌謡曲も多いかな。そのへんが大衆詩という感じ?

アラン・ドロンの映画は『太陽がいっぱい』と『冒険者たち』。アラン・ドロンの映画ではヴィスコンティの『若者のすべて』とか好きだった。モノクロの方がいいかも。あと『山猫』もいいけど、あっちはバート・ランカスターに喰われてしまったな。そういえばアラン・ドロンに興味があったのは暗黒街というものの映画で、ドロンとむさ臭いおっさんという取り合わせでブロンソンとかの映画が当時TVで放映されていたのだと思う。それを観てあのシーンが良かったとか言って真似をするのだった。ブロンソンのタバコもシーンとか(『さらば友よ』のラストシーン)。そうやって映画が好きに成っていったなと懐かしい思い出。アメリカ映画よりもフランス映画(ヨーロッパ映画)の方が好きになったのもアラン・ドロンのおかげかもしれない。

今日の一句。

「さらば友よ」絶望の日にマッチ擦る 宿仮

今日の一首。

宿題の
絶望の夢
見ない日々
怠惰に過ごし
老いていくかな




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