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獺祭忌本は売らねど鰻は食いたし

『仰臥漫録 (ぎょうがまんろく)』正岡子規(岩波文庫)

明治三四年九月、命の果てを意識した子規は、食べたもの、服用した薬、心に浮んだ俳句や短歌を書き付けて、寝たきりの自分への励みとした。生命の極限を見つめて綴る覚悟ある日常。

9月19日が正岡子規が亡くなった日で、子規忌、糸瓜忌、獺祭忌(だっさいき)などいろいろ呼ばれていますが、獺祭忌が一番面白いネーミングですね。獺(かわうそ)が自分の食べ物を並べるように、病床の子規もなんでも自分の側に並べていたからそう呼ばれたとか。

『仰臥漫録 (ぎょうがまんろく)』は、俳句だけではなく絵筆を握って病床で描いていた。寝ながら描いていたので大して上手くはないですが、そこから子規の写生という吟行が出来ないなりにも四季の変化を探して描いていた。実際はカラーののだそうですが、岩波文庫は白黒でした(後で岩波文庫もカラー版があることを知りました。手に入れるのはカラー版の方がいいですね)。角川ソフィア文庫はカラーで絵が付けられているそうです。

餓鬼も食へ闇の夜中の鰌(どじょう)汁

まず植物画よりも、子規の大食漢に驚かされる。お粥4杯とか。それで夜中に腹を壊して、さらに鰌汁とか。同情できませんぜ!ただ子規はこの時は、まだ30過ぎの普通だったら働き盛りの年齢だっただけに食べて回復しようとことがあって無理にも食べていたのかもしれないです。

それらの料理を用意した妹や母の気苦労が伺える。まあ、子規は人脈もあったので、土産ものも多かったのだろう。

死ぬ一年前の35歳の日記だと知る。糸瓜や夕顔が多く描かれていたので、子期が近いのかと思ったがそうではなかった。

妹の律のことが書かれている日記(9月21日彼岸入り)律は子規の面倒を見ながら女中や看護婦のようにこき使われる。大河ドラマ『坂の上の雲』では菅野美穂が好演していた。そういえば子規役は、今話題の香川照之だった。これが彼の代表作と成っていったのだ。時代の移り変わりを感じてしまう。

律は、あれこれ文句を書かれながら、食事はお新香一切れで済ませていたと。子規は、鰻を一人で数十串食べる。土産の鴫も一人で三羽も食べてしまう。それは子規の病が「脊椎カリエス」というカルシウムを損なう病だったからなのだろうが、大食漢でカルシウムを補おうとしたらしい。極端な例で云えば牛乳を毎日がぶ飲みしている。

律の強情さを書きながらも、そこにやはり感謝は感じられる。ただ当時の家父長制の中で食事の格差が当たり前のように(病気なのでなおさら)差別されていたのも事実だ。

芭蕉の句について。

五月雨を集めて早し最上川  芭蕉

の「集めて」が作為的で良くないと。それと比較して蕪村の

五月雨や大河を前に家二件 蕪村

を褒めている。作為的なものがない自然のままということなのだろうか?家流されてしまうんではないかい?

あら海や佐渡に横たふ天の川 はせを

という句は明治の世にあってはこんな簡単な句は作れないという。太祇の句は、歩く旅の人の句であればそれを真似ようとするのは如何なものかと。

10月13日の日記は、自殺騒動の日記で、子規が病気のために贅沢な食費を賄うのも金がかかり、子規としてみれば青年時にすぐ50円の収入があって、いつまでもその稼ぎがあるとばかり思っいた。ところが病床で執筆料も思うようにならずに、次第に生活費ばかりの記述が続くことになる。

獺祭という書を得ると烙印を押すのだが、古本を売るにもその獺祭印が公にバレるのを恥ずかしいと思うほどプライドの高い子規であった。しかし経済的な負担は軽くはならずいよいよ虚子にも借金を言い出す顛末となっていたのだ。

律と母が留守の中自殺を決意するが死にきれない。母は悟っていたのだが、帰宅すると子規はおいおい泣いてしまう。あれほどのプライド高い男なれど、それが余計に哀れになる。次の日からの日記も明らかに違う。

しかし数日過ぎるとまた食べ物の記述が続くのだが。旧暦の9月17日が子規の誕生日で、その日は家族三人での誕生会。この時は律も母も仕出しの料亭の料理を食べたのだ。そこまでの食べることへのこだわり。自分はほとんど贅沢はしないので料理の贅沢はほとんど無駄だと思ってしまうのだが、この誕生会の話はいい話だった。

子規は病床で写生句ばかり作っていたのでは無かった。旅行記などを読んで想像世界で遊ぶこともあった。俳句は作ってないけど言葉の羅列(季語だろうか?)を書いている単語がそれだけで痛々しい言葉だった。そして俳句が作れる喜びは貴重なものとして感じられる。同じ季題で数句作る喜びは子規ならではのものかもしれない。一句一句が子規の生命なのだ。生涯俳句というのかもしれない。



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