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クリスマス恋人たちは隠れ家なし

昨日はみなとみらいへ映画を観に行った。もうクリスマス・デコレーションだから独り者には辛い季節だ。昼間はまだいいんだけど、夜は木にライトを付けての幻想的光景を作っていて、夜なのに家族連れや女子高生などで溢れている。恋人たちはそれほどいないのは、隠れる場所(いちゃつく場所)がないからだろうか?光で煌々と照らしているのだから情緒もない。人工的な光が毒々しいぐらい。

図書館。『チェヴェングール』第二部まで。第一部はパゾリーニがあとがきで書くように散文詩というような貧困の農村の姿を描きだすのだが、第二部は革命が起きて、孤児として育てられた(第一部の老人に)息子が成長してソ連という理想に燃えるドン・キホーテ的喜劇になっている。ドン・キホーテならば自ら傷ついていくのだが、ドヴァーノフ(第一部の主人公サハール・パーヴロヴィチに育てられた孤児)とコビョンキン(革命の司令官)は革命理念に燃えて殺人をも肯定していく(恐怖政治が滑稽譚として描かれている)。ラスト近くになって「チェヴェングール」という言葉が共産主義が目指す理想の国家だということがわかる。その指導者であるチェブールヌイ(日本人と呼ばれる)は革命委員の議長であり、彼等と合流していくのだった。

どうにか第二部を読み終わったが、第一部との文体の違いだろうな。散文詩の世界からパロディ的滑稽譚になっているのだから話についていくのが大変だった。ソ連の滑稽譚は当時者でなければわからないことが多いし、それを批判書にならないようにある程度ぼかして滑稽譚として描いている(しかしこれはあきらかにソ連の批判書になっているので発禁処分となっている)。

プラトーノフの滑稽譚とポーのホラー(恐怖譚)は、同じ人間の理性的ではいられない側面を伝えていて、両作品同時に読むことで気づきもあった。

ポーのドラマはラスト一話(「大鴉」)になった。やっとストーリーを理解出来した。製薬会社のオーナー一族を廻るスキャンダルなのだ。その始まりが愛する妻を失ったオーナーが妻を生き返らすための薬というような幻覚剤(痛みをなくす癒やし薬)を開発していくのだが、人体実験とか動物実験(チンパンジーが凶暴化『モルグ街の殺人』をモチーフとしている)などのポーの作品を踏まえた各エピソードで息子たちが死んでいくのだった。その発端にある人物の製薬会社のスキャンダル密告という始まりがあって、息子たちは犯人探しに疑心暗鬼になっていくなかで次々とホラー(復讐譚になている)的な事件が起きるのである。その製薬会社を訴える弁護士がデュパンというポーの作品の中では探偵なのだが、アッシャーとは幼馴染ということになっている。その妻がアナベル・リーで妻を愛するが故なのだが、その妻の不審死がこの事件の元凶にあるようなのだ。ラストの「大鴉」で解決するのか?面白い展開だよな。

そんなことでポーの作品はいろいろな翻訳(文庫本)で読んでいたのだが、とりあえず切り上げる。全部読むほどでもなかった。ポーのホラーの核心みたいなものが読めれば良かったので。読メに感想は書いたがあとで書けたら書こう。読書はこれでプラトーノフに集中できるな。

「シン・俳句レッスン」は芭蕉関連の本を少し読んだ。やはり俳諧は挨拶というディアローグ(対話)という論理だった。近代のモノローグからの脱皮という。少し煮詰まってしまっているかな。モノローグ(自我論)からなかなか脱皮できないのかもしれない。ポーのホラーとプラトーノフの滑稽譚がヒントになるのかもしれない。対話(理性)の不可能性ということか?

「うたの日」に投稿した短歌は尻切れになっていた。コピペが上手く出来なかったのだ。まあ、またどんまいかと思うとさすがに凹むよな。ただこれも練習だと開き直ればいいことなんだけど。

今日はそんなところか。やる課題が多かった。まず昨日観た映画の感想から。『蟻の王』。

今日の一句と一首か。

クリスマス恋人たちは隠れ家なし

光のデコレーションは闇を消す剥き出しの愛 木々のボンテージ

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