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シン・現代詩レッスン10

今日も『春と修羅』から「小岩井農場(パート九)」。

小岩井農場(パート九)

すきとほつてゆれてゐるのは
さつきの剽悍(へうかん)な四本のさくら
わたくしはそれを知つてゐるけれども
眼にははつきり見てゐない
たしかにわたくしの感官の外で
つめたい雨がそそいでゐる
 (天の微光にさだめなく
  うかべる石をわがふめば
  おゝユリア しづくはいとど降りまさり
  カシオペーアはめぐり行く)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張つて
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
……………はさつき横へ外それた
あのから松の列のとこから横へ外れた
  幻想が向ふから迫つてくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ
わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  あんまりひどい幻想だ

「小岩井農場」は賢治の地元にある酪農農場。

『春と修羅』の中に「小岩井農場」と題の詩は「パート1」から「パート9」まであるのだが、5,6,8が欠落している。賢治が小岩井駅から小岩井農場までを歩いた歩行詩であり、その中に回想や心象スケッチが含まれる。例えば5.6は欠落しているのだが、後の別の形で「第五綴」「第六綴」と題されて宮沢賢治の学校(教師をしていた)の後輩教師に対する思いが綴られているエッセイ風の詩だ。その中で賢治は後輩に厳しく接してしまうがそれを後悔する詩を描く。宮沢賢治は宗教的な理想主義者であるが行き過ぎのところがあり煙たがれられる人というような。

同性愛の相手も国柱会に勧誘するが、相手は拒否するのに何度も勧誘していく。相手はキリスト教徒なのだ。その辺りで賢治は相手の気持ちを考えず自分の理想だけの人生を追いかける人のように思える。そのへんが賢治の詩の強さでもあるのだと思うが宗教人だと迷惑だと言えば迷惑な人だったのだろう。賢治と同性愛の相手は精神的な関係のように思える。それが宗教的な思想の対立が決定的だったのだろう。その相手とは創作の同人であったようで、その中で詩とか短歌を書いていたようだ。

パート9は、それまでいろいろな回想や風景詩があり、ここで童話的な賢治らしさが見られるような気がする。最初の4本の桜の喩えは、その同人誌の仲間4人ということだった。ユリアとヘルペルと私(賢治)の道中だが、一人だけかけるているのが、その同性愛相手だということだった。

ユリアは女性名なので妹のような気がする。「感官」という言葉から尾崎翠『第七官界彷徨』を連想してしまう。

『春と修羅』は『第七官界彷徨』の前に出版されているから尾崎翠は読んだかもしれない。

今日の日記で入沢康夫『詩にかかわる』で宮沢賢治が手帳とシャーペンを持って日記のように詩(賢治は「心象スケッチ」と言う)を書きつけていたことが書いてあった。『春と修羅』はそんな詩だったのだ。中原中也がこの本を古本屋で大量に買って(十冊ぐらいだが)友達に配っていたとか。大岡昇平が書いている。きっと『春と修羅』の中にそういうエッセンスが詰まっているのだと思う。

伊勢佐木町商店街(パート1)

串刺して泳いでいるのは
商店街の鯉のぼり
一連に連なって何を願うのか?
街には棒立ちの鯉のぼりも消え
風は無風
かろうじて幼稚園の鯉のぼりはだらしなく
五月晴れに首括られている
それはわたしの第七官界の外の世界
商店街に活気ある人が欲望を満たしている
つめたい雨は今日は降らずに
鯉のぼりは乾ききった干物と化し
おお、父さん母さん
妹もいたのかそれは昔のこと
いまでは家族バラバラ
寄せ集められた養老院
商店街の鯉のぼりはただようふ
賢治、中也、遠い友達よ
康夫はここにいたのか
みどりはどこに行ったのか
街をさまよひ
川をさまよひ
図書館をさまよひ
商店街をさまよひ
映画館をさまよひ

あんまりひどい幻想だ

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