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ジダンの頭突きは悪かったのか?

『フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』 2021年2月』小野正嗣 (NHK100分de名著)

フランス領マルティニークで生まれたファノンは、「黒人」でありながら、フランス留学やレジスタンス兵への志願を通じて「白人」に同化しようと試みるが差別は止まない。精神科医として人間の心理に内面化された差別の構造を凝視したファノンの思想を、仏語文学者で作家の小野正嗣氏が解説。

ファノンが目眩に襲われた白人の植民地支配からニグロと見られる存在としてそれまで無意識だったことが意識化されていく過程を書いているが、『存在と無』体験としている。サルトルは『存在と無』の前に『嘔吐』(目眩の小説)を書いていた。

『存在と無』よりも『嘔吐』のほうがわかりやすいかも。それは第4回で「北アフリカ症候群」と名付けられた、医師たちは症状の原因を探ろうとするが患者は言葉には出来ない。精神的なもの、不登校の生徒の無気力状態、会社員の出社拒否状態、それらは鬱病と言われたりするのだが、「嘔吐」感だった。

他者性によって規定される身体、隷属状態、そこから抜け出す困難さ。例えば先程見たドキュメンタリーで経済的に豊かになったナイジェリア人が中国人の女声と付き合う。彼女は黒人は愛することはないといい、むしろ偏見さえあるのに遊びたいから彼と付き合う。

よくウィン・ウィンの関係などと言われるがまったくのフィフティ・フィフティなんて関係性は理想に過ぎず、それを感じたいのは何かに目を閉じているからだ。構造的な社会問題を見ないようにすることで個人的に受容してしまう。犠牲にされるのだ。

奴隷と主人の関係だがNHKラジオ「朗読」で谷崎潤一郎『痴人の愛』を聞いているのだが、そこも絡んでいて興味深い。金持ちの男が少女を自分通りの女にしようとする。彼は主人と思っていたけど肉体(身体)的にはナオミの奴隷となっていたのだ。文明開化の歪み。

「嘔吐」を解決するには社会参加(アンガージュマン)とするサルトルの実存主義では解決できないのは、引きこもりを無理に外に連れ出してもそれは他者による強制(矯正)であり、意識化させるのは抑圧する側なのだと思う。そこに文学がある。それはカミュの文学なんだと思うのだ。

もう少し整理が必要だけど、ファノンがサルトルの実存主義に共鳴しなかったのは、カミュのアルジェリア問題と共通しているのだ。フランス人でもなくアルジェリア人でもない。まさに今の在日の置かれている状況かもしれない。(2021年03月01日

オリンピックの開会式を見ていて、少数の元植民地国家が多いので入場行進も長いなと見ていたのだが、そんなファノンがマルティニーク出身のフランスの植民地であり、オリンピックがまさに帝国主義的な文化なのだと思ってしまった。それはサーフィンの会場がタヒチであったり、未だフランス植民地の意識を引きずっているように思える。またオリンピックの競技が白人のスポーツとしてルール付けられる時に、ヒーローだったジダンが一気にアンチヒーローとしてニュースになったりした。誰もジダンのそのときの感情など問題にしない。

第1回 言語をめぐる葛藤

マルティニークでは黒人たちはクレオール語を使っていたがフランス語が正しい言語だと教育させられた。それはフランス語で書くというフランスへの同化であり、クレオール語で話すことは劣った者たちの言語だと信じ込まされていた。白人がイメージする黒人のステレオタイプは差別的な(劣った)ものとして教育させられる。それはフランスでアカデミー・フランセーズとして権威付けられたものでマルティニークの黒人もフランス語を使っていれば白人と同等と信じられてきたが、本国ではなおも差別された。

第2回 内面化される差別構造

そのもっともな例がレジスタンスとして祖国解放運動に参加しながら軍隊内の序列であり、マルティニークの黒人の中でもアフリカ出身のセネガル兵に対する差別の構造があった。それはマルティニークの黒人は自分たちは白人に近いのだと思っていてもセネガル兵と同等に扱わられることのショックを隠せないでいた。差別される黒人の中にも差別の構造が組み込まれていくのを知る。
それはトニー・モリスン『青い目が欲しい』という黒人少女の祈りはその悲劇性を物語っている。ファノンの黒人の「乳白化」という欲望と通じている。「自己疎外化」を植え付ける教育だという。例えば英語教育で英語のテキストは白人の中流化をモデルとして描かれている。それはハリウッドの映画の構造と似ている。黒人たちはそこから排除されるように教育されていくのだ。

第3回 「呪われたるもの」の叫び

例えばファノンがパリの街を歩いていると少年からニグロと呼ばれる。最初は少年の言うことだから笑って見ていたのがそのうちに「ニグロは怖い」と言い始めた時にファノンは自分が置かれている状況が理解出来たという。それは「ニグロ怖い」という視線は無邪気だと思っていた子供さえ共有されているものなのだ。

ネグリチュード問題。

例えば「黒いオルフェ」もヨーロッパの物語の翻訳にしか過ぎない(キリスト教的な)。それを黒人詩人の優れた詩だとサルトルなんかが称賛する。それはジャズでもボサノバを否定する黒人ミュージシャンもいるわけだった。それらは白人を楽しませる音楽だと。このへんの感性は実際に難しくて音楽に政治性を持ち込むなと言ったりするのだが、彼らがボサノバを演奏してと言われるときのあらかじめ決められてしまうイメージを拒否するミュージシャンもいるということだと思う。

第4回 疎外からの解放を求めて

植民地が依存的関係やコンプレックスとして意識付けられるときにその疎外から抜け出すのはなかなか難しいという。それはあらかじめルールが白人用に作られた中でゲームをしなければならないからだと思う。オリンピック教義でバレーボールのルールがどんどん改正されて行ったのはヨーロッパ人が有利のように日本人ごときの姑息な手で優勝してしまう競技(アンテナ問題やブロックのワンタッチ問題。最近のバレーはほとんど自分たちが知っているバレーではなくなっていた)ではないという。例えばサッカーのフェアプレイ精神。ジダンの頭突き問題で一気にヒーローからアンチヒーローに転落したわけだが、誰もジダンの気持ちなど理解しようとしなかった。まずサッカーのルールが優先されるのだ。


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