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自分のための短歌レッスン1

今までは「うたの日」で評価される短歌を目指していたが、今日はからは新たに自分のためだけのレッスンを始める。自分だけのものなので、あまり他の人には役に立たないかもしれない。短歌だけに絞らず創作一般にして行こうと思う。とりあえず短歌レッスンの続きということで。

塚本邦雄短歌

坂井修一『塚本邦雄』

これは難しいことはないな。だが「四肢照らされて」のわれらとは?ヴェルレーヌとランボーだということだった。詩作に疲れ、放浪に疲れ、口論に疲れていうことだ。そうするとこの「稲妻」は二人の激論のことかもしれない。それと対置するポンペイの彫像。

今日の課題

映画短歌2首(公開)。ネット句会締め切り(非公開)。俳句ポスト(兼題「寒卵」、非公開)の予定。

模範十首

燻製卵はるけき火事の香にみちて母がわれ生みたること恕(ゆる)す  『水銀傳説』
うすぐらき孔子のことばかざりたる父よりのたまごいろの繪葉書  『水銀傳説』
孔子に随(したが)ふ處女(をとめ)ありしや 心冷え牛乳を挽歌の水もて淡(うす)む  『緑色研究』
暴動鹽(しお)のごとくあたらし剛毛のツェツェ蠅棲む國の處女(をとめ)に  『緑色研究』
婚姻のいま世界には數知れぬ魔のゆふぐれを葱刈る農夫  『緑色研究』
こころかよはざるはらからよ死の後の象(かたち)想ふにさへ黑き貘  『緑色研究』
五月來る硝子のかなた森閑と嬰兒みなころされたるみどり  『緑色研究』
獨活(うど)刈ればあをきににほひをそのかみのほほゑみて死をたはる從者  『緑色研究』
ほほゑみに肖(に)てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺  『感幻樂』
思ひ出よ離騒心を刺す夏の日のはじめなる瀕死の螢  『星餐図』
掌の釘の孔もてみづからをイエスは支ふ 風の雁來紅(かまつか)  『星餐図』

坂井修一『塚本邦雄』

俳句ポストの兼題が「寒卵」だったので、選んだ。「燻製卵」は「キャビアを燻したもの」だそうだ。燻製卵というがあると思ったが。「はるけき」非常に遠く隔たっているさまを表す表現で火事に付く。遠くの火事。その匂いが「燻製卵」に象徴させている。「母がわれを生むこと」なんて中二病みたいなセリフだが「恕(ゆる)す」の文字が燻っている感じか。卵を自分自身に置き換える。使えるかな?

寒卵生まなければ温めず

付きすぎか?もう一句できた。これを投稿しよう。失敗した。訂正できないか?最初考えてから言葉の意味を調べるべきだった。結果発表、2023年02月27日。

「孔子」の言葉は見向きもしなかったが高橋源一郎『一億三千万人のための『論語』教室』も買ったけど全然読んでなかった。「前時代的」というそうなんだよな。韓国や台湾では儒教的なものが強く残っているという。なんとなく仏教的なもの方が日本では力が強いと思うが最近ではそうでもないのか?
塚本邦雄の父親像は「愛憎の拮抗」ではなく「憎を超えた愛」とか?よくわからんよな。肉親だからか。憎を突き詰めて貰いたかった。
孔子は男の閉鎖社会。ホモフォビアの世界。「心冷え」は「心冷へ」じゃないのか?このへんの旧字のわからなさ。「え」は「ゑ」もあるし。「牛乳を挽歌の水で薄める」謎だ?「牛乳」は「處女の匂い」で「水」は孔子の論理なんか。
「鹽(しお)」は塩の旧字。「暴動塩」とは唐の時代にあった反乱らしい。「黄巣の乱」。民主化運動のアフリカの新たなる反乱の比喩なのだろう。そこの「處女(をとめ)」だ。解説ではその「處女」たちは恐怖の中で強い力を得て生きながらえていると。「ツェツェ蠅」という比喩なんだが、文明国には恐怖の病原菌をもたらす。逆もあるわけだが。五七五七七が「BUDOU(ブードゥー教)」になっている。
「婚姻」を呪う歌なのだそう。藤原定家の「年も経ぬ祈るちぎりは初瀬山尾上の鐘のよその夕暮」の本歌取りだという。藤原定家の歌は個人の恨みだという。鐘が夕暮の情景を誘う。塚本の歌では農夫の葱刈る鎌が夕暮の情景なのだ。なんという歌だ。
塚本の動物シリーズ。やはり貘なのかという印象。塚本短歌の特徴は二句切れだという。そして句跨り。「はらから」は同胞(胎児か?)。象を想像するが黒い貘だった。
嬰児殺しのヘデロ王の神話(聖書)の歌。塚本の嬰児殺しのイメージは全体的にあるのは、ホモフォビアの宿命としてなのかもしれな
植物でも風変わりな題材を持ってくる。儒教的な倫理観のある時代の切腹を想起するのだという。男性中心主義(ホモフォビア)の美学。ワーグナーのイメージから歌われたとする。塚本短歌の男性中心主義(ホモフォビア)は好かん。
「火事」も塚本の好きなイメージだ。この火事は、「納屋を焼く」というような感じか?ピアノは「芸術作品」のイメージだそうだ。芥川の『地獄変』。
「離騒心」は楚の詩人・屈原の辞賦(詩伝)「離騒」から「うれいにあう」と意味。「螢」は斎藤茂吉の短歌からの連想。

草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむゆめ  斎藤茂吉『あらたま』

音韻的には下2句で「はじめ」「瀕死」「螢」のハ行の音韻。上句は母音「au.o」中心。「螢」は塚本の自己投影なのか?
 雁來紅(かまつか)「ガンライコウ」は「葉鶏頭(ハゲイトウ)」のこごだが、英名は『旧約聖書』に登場するヨセフヤコブが与えた多色の上着のこと。「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエスの最期を歌ったという。

『東京マッハ』vol.17ゲスト池田澄子、村田沙耶香

『東京マッハ』は俳句よりも句会の楽しさを伝えるイベントだった。例えば池田澄子の投稿句。

男と女の 間には 川&電波

は会場から圧倒的な逆選であり、村田沙耶香と堀本裕樹が逆選で長嶋有が並選。初心者や多少俳句の知識があれば季語はないし字余りだし「&」の読みがわからないから、当然逆選にするわけだった。これは三行句にすると非常にわかりやすいのだ。

男と女の
間には
川&電波

ただの記号で、「&」は読まない。するとするっと意味も音韻も通っている。そこに男と女の間にあるのが、川(これは流行歌的な)と電波(これはラジオが題詠だった)で、池田澄子は野坂昭如が亡くなったのでその挽歌的な句だと。遊び心だけどどこか本気モードの句会ならではの俳句だった。当然、そんなところを深読み出来なくて、私も逆選にしたけれど。

そして特選は千野帽子特選、米光一成が並選。私

ぺったりと羊羹倒れ日永かな

これは夏目漱石『草枕』に羊羹の日本的情緒について語っているので、漱石風の明治っぽい俳句なのだ。堀本裕樹作で美味いけどあまり面白み(現代的)ではない。

もっとも現代的な歌で選者から評価を得たのが並選5人の長嶋有の投稿句。

出来立てのジャムから湯気や花曇

ジャム作りが今風だしその湯気と花曇りの取り合わせがよくマッチしている。その情景からいろいろ物語を想像出来る。

もう一つ物語性のある俳句だと。

ディスクジョッキー明るく一人きり春灯(しゅんとう)

ディスクジョッキーはカタカタだけど60-70年代。かつてを思い出して春灯の取り合わせ。上五が字余り中七も句跨りの下五も字余りで、普通だったら取らない句だが特選一人に並選三人。それも選んだのが俳人二人に千野帽子だった。「ディクジョッキー」の読みが収まりがいいのだ。かなり技工的な長嶋有の投稿句。

さらに堀本裕樹の村田沙耶香の挨拶句の自然っぽさ。

春雨の音や人工授精中

そういう普段の句会では出来ない俳句が並ぶのだ。

それを踏まえてオンライン句会だと当たり前の句しか出来ず冒険したいと思ってしまうのだ。今日作った一句なんていいと思うけど。

次は谷川俊太郎がゲストだった。これもやろう。

谷川俊太郎の言葉が詩人ならではで面白い。俳句は団栗(どんぐり)の背比べ的で、そうなんだ、初回のマッハよりみんな俳句俳句した俳句を小さく纏めて作る感じでスケールの大きさがなくなったという。そんな中で谷川俊太郎の全員の支持を集めた俳句。

アの次にイが来る国のがぎぐげご

言葉遊び的な谷川俊太郎の句だとわかるが、やっぱスケールの大きさかな。アとイで「愛」となるけど、それはアメリカとイギリスでありだけど世界はガギクゲゴみたいな。その音律も素晴らしいし、意味よりも韻律で選ぶという長嶋有は正しいのかもしれない。意味はあとから読み手が解釈してくれる。勿論そういう解釈する人が多い句会でないと成り立たないのだが。ここのメンバーは読みがなによりも素晴らしいのだと思う。

他に3番の句も千野帽子が選句し、自分も面白いと思ったのが。

駄目なのかポチが歩いているだけじゃ

季語はないんだけどなんとなく春の感じがする。これは俳句に対して挑戦かと思ったら詩全般のことで変に意味を持たせようとする詩一般に対しての批評の句なのだそうだ。ポチが歩いているだけで詩になるイメージ。

谷川が特選に選んだのも大きな句だった。

夕焼けを食べて吐き出す大伽藍

米光一成は『シン・ゴジラ』をイメージした句だとか。ゴジラにするとわかりすぎるから大伽藍にしたとか。そうなんだよな、ここではわかりやすい俳句らしさは禁物になっていた。

蛇苺短き車両錆びており

これはもう俳句らしい俳句で侘び寂びの世界だが、谷川俊太郎に言わせると類想句がありそうだから取れないと。車両をミニクーパーにするとか、その方が現代的で掲載句は古めかしいノスタルジーの感じで、それは谷川俊太郎に言わせると初期の頃のアナーキーさが無くなってしまったという。それは誰でも初心者の豪快さよりも俳句のスタイルを学んで五七五に季語で収めようとするから、一層の事無季や字余りで自分の感情を乗せたほうがいいのかもしれない。谷川俊太郎の参加は今までになく、新鮮な句会だった。

もう一つもやってしまおう。ゲスト最果タヒ。これが最後だった(この本では)。トップ。

緞帳(どんちょう)が等速で落ち梅雨の闇

緞帳が読めなかったので選ばなかった。舞台縛りということで宝塚好きの最果タヒ歓迎のお題だった。そう思えばいい句に思えてくる。最果タヒの読みは舞台の明るさと幕が下りた時の闇の感じ、それで外が梅雨だとしたら、なおさら舞台の明るさが引き立つという。やっぱ句会は読みの世界なんだな。

指先の血は吸ってよし花胡瓜

千野帽子特選。自分も特選にしたが、千野帽子と重なることが多い。そして、それが米光一成というのもよくあるのだが、選句は重ならないのが不思議だ。米光一成は俳句の研究をかなりやっていると思う。しかし好きなのは俳句らしからぬ句なんだな。

最果タヒの当たり判定を予測して作るというのは詩人だから出来るんだろうな。

血を流す鸚鵡追いかけ夕立へ

千野帽子がいうように俳句はカメラ的な決定的瞬間がいいとされているのだが、この句は動いている。それを指摘されたときどうして駄目なのかわからなかった。堀本裕樹は「血を流す」と「夕立」の取り合わせがいいという。血を流す程度だとポタポタという感じでまだ飛べるけど、血まみれだともう飛べない。その辺のセンスの問題。その血を後で夕立で流すイメージ。これはお題がゲストである最果タヒが出したのだが見事に俳人の詩心を誘い出した読みであったわけだ。最果タヒの話は、自分の好きな俳人を選んで(鷹女)だと、それまでの名句と言われるものが良いとは思えなかった。それは千野帽子の説明だと言葉の連想(イメージ)から入る人と写生で俳句をつくる人がいて、言葉のイメージの人は写生句をそれほどいいとは思えない。まあプレバト流の夏井いつきが選びそうとか言っていた句ではないのだ。夏井いつきが選びそうな句というのが

アロハ着て寄席は一番太鼓から

これは落語の寄席に行った人じゃないと一番太鼓というワードを見落とすが、それは真打ちの取りだけ見るミーハーファンじゃなく、本当に落語好きで最初から見る人、それもアロハ着てという感じが絵的にもいいが、長嶋有はいかにも俳句っぽい句だというで取らなかったというか逆選にしたのだ。

映画で短歌。

『あのこと』(2021年/フランス)

血の月を見たのは私
あのことの
秘密を抱え作家になった

血の月を見るのは女
あのことの
秘密を抱え狼月へ

『冬の旅』(1985年/フランス)

放浪す魔女の火あぶり
冬の旅
犠牲の山羊と乾杯の歌

狼月の俳句一句

絶滅の遠吠え届け狼月


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