シン・短歌レッス114
王朝百首
塚本邦雄『王朝百首』から。
菅原孝標女なんか面倒くさい名前だが、名前を知らないから女(むすめ)と呼んでいるだけだった。
『更級日記』の作者だった。『更級日記』は『源氏物語』オタクの日記ではなかったか。
この歌も『源氏物語』「朧月」をイメージしており、また季節比べで春と秋どちらがいいかという問いにもなっているという。それは『源氏物語』から培われてきて後鳥羽上皇の春恋の歌をつなぐ位置にあるという。季節のどっちがいいか?的なものは出合いによって変わるからその時の事件の衝撃度だよな。冬だって(暦では春か?)、雪と梅の取り合わせが幻想的になる。
大学生合同歌会
篠弘『現代短歌史Ⅱ 前衛短歌の時代』から「大学生合同歌会」。戦後学生短歌同好会から各大学を集めての合同歌会が行われたという。なによりも今と違うのは上からではなく、学生の自治的な集まりとして、各大学の歌風を議論していたので、相手をたやすく認めない真剣な議論になったという。
その予兆として、塚本邦雄や岡井隆の登場によって戦後の短歌運動として潮流があったという。塚本邦雄は「コクトオの周辺──アヴァンガルドの反省」という題で無自覚なアヴァンギャルドを排そうとした(シュルレアリスムが無意識的な深層心理を探るものだったのに、その反対に意識的なこととするのだろうか?)。岡井隆は「『写生』をめぐる断片」として、アララギ派が唱えていた「写生」の概念をもう一度、問い直そうとした。塚本と岡井が繋がっていくのもわかりそうな気がする。
その潮流から寺山修司が高校生歌人として出てきたのだ。短歌界の新風が起きているのがわかる。
そんな中で大学合同歌会は、既成の短歌に囚われない新しい可能性を探っていくのである。それはそれまでの抒情に頼っていた自然主義リアリズムからの克服としての批評性を持った前衛短歌運動として萌芽していくのであった。
現代の大学短歌は結社の下部組織になっていたり、大学内の内輪だけの共感を求めるものになっているのかもしれない。少なくとも各大学の精鋭たちが自身の歌論をかけて論議していた歌会とは隔世の感があるように思われる。
西行
目崎徳衛『西行』から「俵藤太の末裔」。西行は北面の武士として頼朝が弓馬の教えを請うたというほどの武士だった。それは将門を追悼した俵藤太(藤原秀郷)の末裔なのだ。祖父は白河院の時代の名の通った検非違使であり、また母は後白河院の今様の師であった源清経の女であり清経は蹴鞠の目人でもあった。外祖父である清経は「数奇者」であり、その影響が西行にもあったとする。武士の素養は父方の血を引き、芸能の血筋は母方にあったという。
昭和遠近
ひよこをぢさんは俺らのときもいたな。いろいろいたような。最近でもピエロのマジックみたいな操り人形をぢさんが出てくる映画があった。あと絵とかだよな。有名画家の絵だったような気がする。あのひよこはほとんど雄で卵を産まないとか。大抵はそれ以前に死なせてしまうのだが、大きくなった鶏をペットとして飼っていた友達もいたような。あとそんなペットの鶏を親に喰われたという話もあったような。今はすぐ親が連絡して教師が販売を禁止させるだろうな。あのをぢさんたちを憎めないのは夢を売っていたのかもしれない。
今だと駅の夜とか路上販売していたりするから、をぢさんの職業がなくなったわけではなかった。そうだ。子兎をミニ兎として売る商売で金儲けする学生の映画もあった。
いまだと特殊部隊が相手の基地に乗り込んで惨殺するイメージか。そういう映画やらアニメを見て育っていくこの頃の子供たち。
終戦(敗戦)から三年後の作品。「ララ」は「アジア救済連盟」の略称だという。「ララのテーマ」から来ているのかな。
昔バイト先で飲み会になると給食の話題でもりあがったな。脱脂粉乳を知っている世代と知らない世代と。今だとコッペパンとかかな。最近の給食は以前より貧しくなったとネットで出ていた。脱脂粉乳は家畜の餌だったんだよな。アメリカの余剰作物を日本にまわしていたわけで。まあ、そんなもんだ。
こういう食べ物の世代ギャップって面白いよな。うちらのバレンタインはゴディバが当たり前だったけどとうそぶいてみる。
そうだ、バレンタイン短歌とかあったんだよな。これ一首出来た。下句は句跨り 「ありえない悪 夢で夢精する」。
マイ・ファニー・バレンタインの定番はチェット・ベイカーだけど、エディ・コスタで通ぶるのがあの頃だった。
そう言えばバレンタイン伯爵ってかなり悪人だったということだが。
「血のバレンタイン事件」とかもあったな。ガンダムとかだった。
義理チョコを本命と間違え自爆するガンダムオタクの「血のバレンタイン」
詩歌と芸能の身体感覚
『短歌と日本人4 詩歌と芸能の身体感覚』富岡多恵子編から、「言葉のリズムを生むもの」。
俳句の方で春になると森田童子が聴きたくなるという話題で、森田童子の歌は抒情歌であるとしたのだが、日本人に限らないのかもしれないが日付が事件として抒情を生み出すというのはあるような。例えば9.11で高野ムツオ『あの時 俳句が生まれる瞬間』そういう抒情を生み出していたのだ。それが嫌な感じだと思ったのは抒情に寄り掛かりたくなかったからだ。
例えば今読んでいる『昭和史発掘』でも2.26事件のノンフィクションなのだが、松本清張は一人の青年将校の行動に抒情的なものを見出していく。そういう日付が森田童子だと学生運動が終わった日(日付はないが)、日大闘争や東大闘争の終結と共に記憶される歌だったのである。
聴き惚れてしまうな。フォーク世代の最後なんだと思う。ギターで一本で弾き語りのスタイル。それが変わったのがユーミンとかサザンが出てきた頃だった。ユーミンはヨーロッパ的なサウンドかな。ユーロビートというような。サザンはアメリカン・ロックで日本語を崩して歌う。ロックのリズムに平坦な日本語はなじまないと考えたのだろうか。矢沢永吉がその走りだったようだが。
日本語のリズムも浪曲とか演歌の小節とかあるのだが、当時はアメリカン・ロックの乾いた感じが良かったのかな。サザンは湘南でサーファーとかカリフォルニアのイメージなのかな。サザン・ロックというんだと思うが詳しくはよく知らない。日本にそれまでのロックがなかったわけじゃなく、ベンチャーズとか加山雄三は桑田佳祐が尊敬しているからそのへんはあったんだよな。
「歌人がアイドルスターになるとき」斎藤美奈子
短歌のリズムのことと関連してくるのが、短歌のキャッチコピー化現象がある。その最初に登場したのが俵万智だった。俵万智の短歌は同世代の女性よりもオヤジたちに支持された。渡部昇一から大江健三郎まで、この二人が同時に支持するというのもなかなかありえない現象なのだ。どこにその秘密が隠されているのか?それはオヤジ殺しのキラーフレーズ(殺し文句)にあるのだという。
それが可愛い女であることの保守化という。短歌のキャッチコピー化は今も続いていて、木下龍也『あなたのための短歌』での短歌ブーム(それは木下龍也ブームだというのだが、いまだに俵万智ブームでもあると思う)があると『短歌研究 2024年1月号』で平岡直子が指摘していた(平岡直子『木下龍也の「き」はキリストの「き」』)。これは短歌のコピーライト化(軽薄短小)とつぶやき(SNS化)にあるという。コピーライディングは消費生活を促す金に関わる経済領域である。それはアイドルが支持する理由として「処方箋みたいに、お守りにみたいになる一首が必ずあるから」(上白石萌歌)とい生きづらい社会を肯定していくキャッチコピーなのだと思う。その反対に短歌が仲間内だけの難解短歌もあるのだと思う。反動としてのキャッチコピー的なコマーシャリズムを拒否する。
この短歌のキャッチコピー化を定着させたのが俵万智だった。
その歌集が与謝野晶子以来の大型歌人登場という1978年の短歌ブームを引き起こしたのだ。それはほとんど俵万智ブームでもあった(その裏で穂村弘『シンジケート』が自費出版された)。
俵万智の短歌の特徴は口語短歌のキャッチコピー化なのだが、もうひとつユーミンの歌詞のようなハイソなライト文化の憧れ(まさにそれが80年代のコピーが台頭する消費文化であるわけだが)がある。ひとクラス上を目指す大衆文化の欲望というやつだ。
この短歌の中にアメリカ的なライト感覚(同世代の女子が好む)ものと二本的泥臭さ(保守主義的なオヤジが好むフレーズ「しろたえの夢」や「我が青春忌」という言葉を潜ませる)があるという。精一杯都会に出てきて頑張る地方のお嬢さんというところだろうか(そして彼女は都会の青春時代を終えて地方で古典の教師とかなるのだ)?見事すぎる分析だった。
NHK短歌
第二週。選者山崎聡子、伝えられなかった思い 「傷ついたこと」(癒やし)がテーマ。そしてゲストにアイドルで先の斎藤美奈子が分析した短歌路線を継続中なのであった。さらに四月からの俵万智復活!
『短歌研究 2024年1月号』
島田修三
浮世というのは日常で日常詠なのか。その中でけぶりという営みを読んだ30首だと思われる。鴉に感情を重ねている老いの姿か?1950年生まれだから70歳超えのベテラン歌人。日常の平穏な佇まいに煩い鴉を待ち望んでいる。孤独感を感じさせる歌か。
島田修三さんは『昭和遠近』を書いている方だった。忘れていたというかインプットされてなかったのか?これで完全に覚えた。
坂井修一「大日越」。坂井修一は、角川『短歌』で短歌史を綴っていた。その記事でけっこう馴染み深いのだが、伝統回帰の人なのか?「大日越」が良くわからん。
熊野古道の二時間ほどの巡礼コースのようんだ。そこへ観光旅行に行った記録だろうか?
AIが支配する世界に生きても熊野古道巡礼をして狗尾草に思いを馳せる歌人だということだろうか?AIと狗尾草の対句。一方はシステムとして、一方はうたとして共存しているのだろうか?
坂井修一は短歌史などを書いた人だから学問をしてきた人なのだろう。その人とが学問は「無為にちかづく」と言っている。狗尾草の世界か?「無為なの共同体」という言葉を連想する。
これはちょっと興味深い。定家的なのは坂井修一なのだと思う。後鳥羽院を輿に乗せて喘いでいるのだ。後鳥羽院はAI的なものだろうか?塚本邦雄が好きな天皇だった。ちょっと違うかな。後鳥羽院が象徴するものはなんだろう。改革者ということなのか?
佐伯裕子「感情移入」。NHK短歌でもお馴染みの俵万智タイプ?の歌人か?
社会詠。
家族詠
社会詠なのだが、無力感ということか?「俯(うつむ)く」が空爆に耐える人とも重なるのかな。
個人詠か。ここなんだろうな。たどり着く感情は。「柿がきれいだ」
水原紫苑「比翼の天使」
この歌人も旧字信望者だからあまり好きにはなれない。
香川ヒサ「一点せり」
初めて知る歌人だった。
名前から若い人だと思ったらそうでもなかった。
面白いかもしれない。
どこの庭にも咲いているかな。以前は大きい見栄えのする花で目立ってはいたと思う。
謎歌だな。「OsO18」は北海道で家畜を襲う凶暴な熊のコードネームだった。
その言葉が理解できれば意味的にはそれほど難しい歌ではないがどうしてこの歌をという感じだ。原罪というのは人間だけにあるのだと思っていた。自然の熊を仕留めた人間の原罪だろうか?熊の小説があったりして、凶暴熊の物語は好きである。
人間が一番怖いという話だがそれほど奇をてらった歌でもなかった。
遺骨発掘のニュースかな?映画が最近公開されたから、その映画からの歌かもしれない。
「昭和の日」があるからかな?「明治の日」もないと思うが。11月3日を「明治の日」しようとする運動はあるんだ。「平成の日」は?「平成の日」はまだ上皇が生きているからないらしい。別にどうでもいい話だった。ただ休日が増えると嬉しいのかもしれない。
タイトルはこの歌からか?点(とも)せり。という一日の出来ごとみたいな歌なのか?日常詠ということか。その中に読んだ本とか映画とかの出来事が重なってくる日記短歌なのかもしれない。
永田淳「月日の鑿」
この人もお初の歌人だった。
父永田和宏、母河野裕子、妹永田紅、妻植田裕子も歌人。サラブレッドじゃないか?
パスしよう。
佐々木定綱もパス。
工藤玲音「いやです」
はいいかな。最近の若手注目歌人。歌だけではなく作家としても活躍中。
結婚して地方に住むことにした若夫婦の喧嘩の歌かな。「蒸し器を洗う」に蒸し返すなというメッセージがあると思う。
タイトルの歌だが、下の句は乱れているな。敬語の乱れということなのか?「!」マークが対句的になっているような。可愛いからと許されると思っているのだが、さらに反抗的な態度ということなのか?
黙って短歌するのだから書き言葉なんだろうな。その口語短歌。IKEA方式ということなのか?言葉が規格品みたいな。
「アルファ化米」川島結佳子
この人もお初だった。もうお初ばかりだろうから、この人で最後とする。
日常詠だった。それほど面白いとは思わないがタイトルの歌は引っかかった。
工藤玲音タイプだな。だからなんだということだ。
うたの日
最近勉強することが多くて長くなる。やっと「うたの日」だよ。それもどんまいにならないようにするだけのために。他にあったら違う歌会探してみよう。ちょっと「うたの日」も飽きてきた。認められないのだから、やっていてもしょうがないかも。
13時の「風邪」ですかね。風邪だと吉本ばななの小説(『つぐみ』だっけな?)熱が出て自分の行動がスローモーションのように感じると書いてあったので熱が出た時は確かめるようにしている。でもめったに熱は出ない体質だった。喉とかが弱点かな。風邪声か?
今日の本歌は、
浅みどり花を「鼻水」にすれば出来そうな感じである。
これでいいや。コピペする時名前までコピペしていた。初歩的なミスだった。これでどんまいだったら目も当てられんな。♪一つだった。もう『うたの日」は止めた。
映画短歌
今日は絶対にこの映画だと思った。『そして俺は、ここにいない。』
クンビアをBGMに。
本歌。工藤玲音に挑戦しようか?
「短歌をしたい」かな?
根本的に出口なしの感じだった。
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