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俵万智一強の時代

『短歌研究2024年4月号』

今月の歌 岡野弘彦

【4月の新作作品集】
三十首
高野公彦「生活動線」
二十首
黒木三千代「悪について」/奥田亡羊「流木」/佐藤弓生「記憶について」/島田幸典「島の街」/高島裕「バンシーズ」/魚村晋太郎「配管」
四十首
石井辰彦「冬の旅 秋のソナタ」

【特集時を超えて、俵万智】
第1部 歌人たちの「俵万智」短歌』2首選と観照
伊藤一彦/伊藤紺/内山晶太/浦河奈々/岡本真帆/小佐野彈/川島結佳子/工藤吉生/栗原寛/小島なお/佐佐木定綱/笹公人/千葉聡/堂園昌彦/永井祐/野口あや子/平出奔/藤島秀憲/山木礼子

第2部寄稿
枡野浩一「奇跡のような『いいね』」/松村由利子「魅惑のリズムのメカ二ズム」/ユキノ進「『俵』万智』という大きな物語」/土岐友浩「『プーさんの鼻』の植物詠について」/三宅香帆「和歌と短距離接続する『歌』」

第3部特別対談
対談 俵万智×渡辺祐真|『あがきはまだ』の「あとがきに代えて」
寄稿 渡辺祐真|『あとがきはまだ俵万智選歌集』に寄せて

【寄稿「現代短歌2・0」を探して】
山田航「なぜ「歌人さん」という芸名なのか――枡野浩一の渡航」

作品七首+エッセイ
横田英夫「百寿」/千田慶子「十勝牧場」/石井敏明「おきふし」/大橋弘志「残り時間」/芹澤弘子「製造物」責任』/若菜彦「語りたまへ」/仰木奈那子「家族をおもふ」/水口奈津子「オリオン」/田村ふみ乃「加速する脈動」

連載
仁尾智+宮田愛萌「猫には猫の、犬」には犬のシーズン2 第1回」
吉川宏志「1970年代短歌史 29」
佐藤弓生・千葉聡「人生処方歌集 57」
工藤吉生「SNSで短歌がします29」

書評
川本千栄|後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』
弘平谷隆太郎|北山あさひ歌集『ヒューマン・ライツ』
田丸まひる|山階基歌集『夜を着こなせたら』
荻原裕幸|正岡豊歌集『白い箱』
河路由佳|香川ヒサ歌集『静かな光が灯る私の旅』
中山洋祐|山口青歌集『鳥静かノート』
真中朋久|楠誓英歌集『薄明穹』

短歌時評=川島結佳子「あなた何者なの?」

作品季評(第130回・前半)=穂村弘(コーディネーター)/高良真実/青松輝
佐佐木定綱「生物歌」/川島結佳子「夏夜」/睦月都歌集『Dance with the in Visuals』

歌集評・共選=池田裕美子/棗隆

短歌研究詠草米川千嘉子選
特選=田北明大
準特選=青柳啓子/黒澤信子/藤原はるか/熊谷純/赤坂千賀子/高良鳴海/北野美也子/齋藤理津子/川島英子/江本たつ子/関口祐未/衣袋洋子/鈴木れい子/奥田ミヨ子/大滝慶作/西郷英治

第42回「現代短歌評論賞」募集要項

特集俵万智は俵万智が今ブームだというジャーナリズムの視線だろうか?そういう波に乗っていくのが上手い歌人だとは思う。それも才能か?俵万智は口語短歌を流行らせながらきちんと伝統短歌を踏まえた人だとわかる特集だった(特にリズムについては勉強になる)。女子大生歌人も先生で母親だった。その安心感が受けるのかもしれない。オヤジ受けがいいのも一つの才能だった。

俵万智

『短歌研究2024年4月号』が俵万智特集なのでじっくり読んでみることに。それまで俵万智の歌は避けてきたが(『サラダ記念日』は当時の批評とかで読んでいたかもしれない)短歌では避けて通れない道なのだと悟った。

まず自分が思う俵万智の歌は、口語短歌で独自(当時の若者)のリズムがある先導者としての俵万智の偉大さだった。それはポッと出の女子大生短歌ではなく、教師としての古典短歌を学んでのものだった。やはり俵万智の短歌の指導教授は、佐佐木幸綱なのだ。

それぞれの歌人が選ぶ俵万智新旧の歌を上げているのが面白い。

伊藤一彦選

我という三百六十五面体ぶんぶん分裂して飛んでゆけ 俵万智

『サラダ記念日』

真夜中の間違い電話に「もういい」と言われておりぬもういいんだね

『チョコレート革命』

『チョコレート革命』は三冊目の歌集で2000年代に入ろうとする1997年だった。大人の恋愛を描いたとされる歌には、すでに破壊的勢いはないように思える。ただその言葉の裏にある言葉の正確さから自身の感情(詠嘆)を読み込んで共感させているのだった。そこにあるのは孤独な俵万智の恋する姿であった。『サラダ記念日』は同志的なのだ。

小島なお選

愛された記憶はどこか透明でいつまでも一人いつだって一人

『サラダ記念日』

子を抱き初めてバスに乗り込めば初めてバスにわが乗るごとし

『プーさんの鼻』

小島なおもお母さん歌人というイメージが強いがそのお母さん歌人ならではの選が「子を抱き~」の歌かな。この感覚は母親しかわからないというか母親に共感していくのだろうな。

それでも『サラダ記念日』は一人というのだが、「愛された記憶」という幸福感だった。大衆の一人を肯定する俵万智の歌は大衆に支持されて当然なのだろう。

佐々木定綱選

ごみ捨場に歌を歌える子どもには歌いたいから歌う歓び

『チョコレート革命』

愚痴、不満、悲観、諦念、母からマイナスイオンたっぷり浴びる

『アボガドの種』

俵万智の明るさはごみ捨場に見出すポジティブさか。そこで歌を歌えるというサルトルの逆だな。いつでも歌っていいんだという。そして日々の愚痴さえマイナスイオンにしてしまう強かな母の強さ。森の光と陰の陰影がますます光を強くする。

笹公人選

さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園

『サラダ記念日』

はなび花火そこに光を見る人と闇を見る人いて並びおり

『かぜのてのひら』

両方ともリフレインが効果的だという。リフレインは歌謡曲的でマイナスに評価されるが、俵万智のリフレインには効果だけではなく意味がある。それも意図的なものを感じさせず自然のリズムとしてのリフレインだという。

堂園昌彦選

スマートフォン持たないことの豊かさを思う日暮れのバスケットボール

『アボガドの種』

我も君もただ「ヒト」とのみ記されて人体見本になりたき夕べ

『サラダ記念日』

上の句はPTAの会長のような歌だが俵万智の教職性が良く出ていると思う。
そうした傾向は『サラダ記念日』頃からあったのだろうか?ポピュリズムの歌。

永井祐選

「おれが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ

『オレがマリオ』

言葉から言葉つむがずテーブルにアボガドの種芽吹くのを待つ

『アボガドの種』

上の歌も教育的だが、そもそも都会ではそうした遊ぶ場所もないからゲームに熱中するという逆なんだよな。そうした環境を選べる贅沢さ。

アボガドの種という捨ててしまうものにも植物観賞するという余裕があるのだ。こういうことは生活に余裕がないと出来ないだろう。そこに誰でもできるだろうと演出するのだが、実は生活に余裕がないとそういうことは出来ないのだ。短歌も同じなのかもしれない。

「魅惑のリズムのメカニズム」松村由利子

ここでも俵万智のリズムについてだった。

この曲と決めて/海岸沿いの/道とばす/君なり「ホテル/カリフォルニア」

字余り句跨りだが、特に下の句のエロさ全開か。「君なりホテル」と読ませる短歌の律。まあ「」の固有名詞は普通一つの律なのだが。

思い出の/一つのようで/そのままに/しておく麦わら/帽子のへこみ

これも字余り句跨りのテクニックの歌だった。

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋

以上三首は『サラダ記念日』から連作「八月の朝」なのだが、その前に「野球ゲーム」という連作を投稿して、こちらは角川短歌賞で次席だったのを「句跨り」「句割れ」を多用したという。そして「我」を「吾(あ)」に替えたことでリズムカルな口語短歌になったという(俵万智は口語と文語の併用だが、文語もわかりやすい、啄木→寺山修司→俵万智の系譜だという)

結語は「二・五の補助動詞+体言止め」の活用で詠嘆調の「かな」ではなく現代的になっているという。最後の五音はキーワードになる。そのリズムは現代短歌の転換点となった。

『「俵万智」という大きな物語』ユキノ進

俵万智の短歌は啄木から寺山修司の系譜というのは自己プロデュース力ということだった。『サラダ記念日』のあとがきで主演・脚本・監督・俵万智と書かれているように、俵万智が提示する女子はオヤジ受けが良く、けっこう古風だったりする(待つ女の和歌のスタイル)。その後『チョコレート革命』では不倫を歌い、『プーさんの鼻』ではシングルマザーとして女性の生き方を問う。「父の不在」「片親」は俵万智のテーマであるがゆえにオヤジ殺しの短歌なのかもしれない。万智ちゃんとイメージ付けながら実は教師であってモラルを問うのだ。そして、何よりもポジティブに表現することで、その明るさを全面に出す。俵万智がバズる秘密は、そのへんにあるのかもしれない。特に女子の模範になりながらおじさん連中に好かれる(旧態としたモラルがある)というところが一番のポイントかもしれない。

『短歌研究2024年4月号』の「作品季評(第130回・前半)=穂村弘(コーディネーター)/高良真実/青松輝」。

佐佐木定綱「生物歌」

佐佐木一族はよくわからんな。有名なのは父親(佐佐木幸綱)か?その次男ということだけど、よく知らなかった。名前だけ見ると父と混同してしまう。

リグオダナタ・ハースティ這う店内に豚骨拉麺啜る我らは

「リグオダナタ・ハースティ」は古代の節足動物。こういうのは面白いのか?検索すればすぐに出てくるが、古生物も古典も変わらないということか?面倒な短歌で作者に興味あれば面白いのかもしれない。調べてもそれほど驚きはないという意見に同意。這うがゴキブリ系の生物を想像してしまう。

街中の小銭抱えて現れる少年に売る古生物図鑑

連作短歌として「古生物図鑑」を出して強化しているという。メタ手法的というがそうなのか?

空中に印刷されて永遠にけろけろけっぴ飛翔している

景はプロジェクション・マッピングみたいなんだけど「けろけろけっぴ」が昭和のど根性ガエルのようだという。これが古代生物だと当たり前すぎるのか?

吐瀉物のただれる道に翅のある人間が叫んでいる夜想曲

リアルな光景がディストピア小説のようなファンタジー仕立てだという。

もはや何も買えなくなりて煙草屋の角で歌よりことばを抜き出す

自己言及的な歌だという。むしろ歌の言葉は貧弱なイメージなのかな。

大いなる鯨沈みてゆくごとく歓声の波押し寄せる街

この鯨の歌はいいと思ったが、単なるパフォマンスに騒いでいる群衆の虚しさみたいな。

川島結圭子「夏夜」

初めての歌人。佐々木定綱と同世代だった。

蚊はわたしの血を吸い蜘蛛は蚊を食べて終わりワンルームの植物連鎖

こっちは現実の生物だが、植物連鎖というわりには頼りない希薄性のワンルームということか?

蚊を払う必要のない身体を思う機械となった身体を

SF的だが面倒臭いということかな。流石に蚊は追い払うだろうと思うが。

例えば妹の買ったゲームの全クリア未だに責められる者、長女は

これはちょっと面白い。

怒っていることだけが分かる怒りだけがコンクリート壁を突き抜けてくる

昔はそういうことがあったが最近は隣にも無関心になってしまった。まだコミュニケーションがある生活だと思ってしまう。

天皇は人間 応神天皇は夏の神輿の上に揺られる

突然天皇の歌が最後を飾る。「夏夜」というお祭りというテーマだからなのか?一首目の口語短歌がいいという。見たままを歌にしているので不敬には当たらないとか。不敬とか考えるところが怖い。

君に家賃を告げて「安っ」と返された猛暑染み込むワンルーム

「告げる」は口語ではなく文語であり、最近は口語文語交じり短歌が流行りだという。いや、俵万智からそういう時代なのだ。それはXとかLINEとかで使うような砕けた文章だという。体言止めや終止形以外の言葉を使うと文語っぽさが出るとか。完全口語とか最近の短歌はよくわからん。

睦月都歌集『Dance with the invisibilres』

灯油売りの車のこゑは薄れゆく花の芽しづむ夕暮れ時を

文語で古風な感じか今どき灯油売りとかいるのか。井上陽水の「氷の世界」だな。陽水の歌のほうが斬新だ!

春の二階のダンスホールに集ひきて風をもてあますてすレズビアンたち

ジェンダーの歌集なのか?そういう視線で読んだほうがいいのだろうか?

女の子を好きになつたのはいつ、と 水中でするお喋りの声

スポーツセンターみたいな所なのか?これは口語短歌なのか?句読点と空白は印象的(見た目がいい)。

秋の夜を喚きまはれる猫いれて猫の重量が部屋に加はる

選評で猫が登場する歌が多いとか。この歌は普通だな。

まだ青いどんぐりが落ちてゐる ふざけてゐて落下した子供

象徴か。自分自身が落ちていったイメージなのか?

家を売る 家のかはりに少しだけお金をもらふ約束をする

どういう人なんだ。ブルジョアなのか?親の遺産なのか?これだけではよくわからない歌だな。別れ話のような気もする。

壊れてしまった目覚まし時計そのままにn+1回目の朝が来る

ネガティブな気持ちだから別れてしまった朝なのか?

手を出せば手をに乗つてきて雨のなか ああわたしたちに帰る巣がないのだ

すごい字余りだな。まあ普通に散文と読めばいいのかも。

野良猫を抱き上げるときはわれは崖 われは崖 風に額さらして

リフレイン句跨り。このへんはテクニックか?

夏の白い光がさしてわたしいま大きな保健室にゐるのかもしれず

その前に「われ」でここでは「わたし」という甘さ。これは高校時代かもしれない。

その日からいまも降りつづく白い雨 あなたが姉妹都市になる夢

白のイメージか?「姉妹都市」というのも甘い感じだが。

雨音のまどろみのなかを抱きよせて猫とは毎朝届く花束

小林麻美のショパンみたいな短歌だな。イメージがありきたり。

今だとレトロな短歌なのかな。そこにレズビアンの現代性みたいな。レズビアンを引くとただレトロなだけだな。そのレトロさもイメージとしてありきたりというか80年代バブルのCMみたいで。だから今受けるのかな。



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