俵万智一強の時代
『短歌研究2024年4月号』
特集俵万智は俵万智が今ブームだというジャーナリズムの視線だろうか?そういう波に乗っていくのが上手い歌人だとは思う。それも才能か?俵万智は口語短歌を流行らせながらきちんと伝統短歌を踏まえた人だとわかる特集だった(特にリズムについては勉強になる)。女子大生歌人も先生で母親だった。その安心感が受けるのかもしれない。オヤジ受けがいいのも一つの才能だった。
俵万智
『短歌研究2024年4月号』が俵万智特集なのでじっくり読んでみることに。それまで俵万智の歌は避けてきたが(『サラダ記念日』は当時の批評とかで読んでいたかもしれない)短歌では避けて通れない道なのだと悟った。
まず自分が思う俵万智の歌は、口語短歌で独自(当時の若者)のリズムがある先導者としての俵万智の偉大さだった。それはポッと出の女子大生短歌ではなく、教師としての古典短歌を学んでのものだった。やはり俵万智の短歌の指導教授は、佐佐木幸綱なのだ。
それぞれの歌人が選ぶ俵万智新旧の歌を上げているのが面白い。
伊藤一彦選
『チョコレート革命』は三冊目の歌集で2000年代に入ろうとする1997年だった。大人の恋愛を描いたとされる歌には、すでに破壊的勢いはないように思える。ただその言葉の裏にある言葉の正確さから自身の感情(詠嘆)を読み込んで共感させているのだった。そこにあるのは孤独な俵万智の恋する姿であった。『サラダ記念日』は同志的なのだ。
小島なお選
小島なおもお母さん歌人というイメージが強いがそのお母さん歌人ならではの選が「子を抱き~」の歌かな。この感覚は母親しかわからないというか母親に共感していくのだろうな。
それでも『サラダ記念日』は一人というのだが、「愛された記憶」という幸福感だった。大衆の一人を肯定する俵万智の歌は大衆に支持されて当然なのだろう。
佐々木定綱選
俵万智の明るさはごみ捨場に見出すポジティブさか。そこで歌を歌えるというサルトルの逆だな。いつでも歌っていいんだという。そして日々の愚痴さえマイナスイオンにしてしまう強かな母の強さ。森の光と陰の陰影がますます光を強くする。
笹公人選
両方ともリフレインが効果的だという。リフレインは歌謡曲的でマイナスに評価されるが、俵万智のリフレインには効果だけではなく意味がある。それも意図的なものを感じさせず自然のリズムとしてのリフレインだという。
堂園昌彦選
上の句はPTAの会長のような歌だが俵万智の教職性が良く出ていると思う。
そうした傾向は『サラダ記念日』頃からあったのだろうか?ポピュリズムの歌。
永井祐選
上の歌も教育的だが、そもそも都会ではそうした遊ぶ場所もないからゲームに熱中するという逆なんだよな。そうした環境を選べる贅沢さ。
アボガドの種という捨ててしまうものにも植物観賞するという余裕があるのだ。こういうことは生活に余裕がないと出来ないだろう。そこに誰でもできるだろうと演出するのだが、実は生活に余裕がないとそういうことは出来ないのだ。短歌も同じなのかもしれない。
「魅惑のリズムのメカニズム」松村由利子
ここでも俵万智のリズムについてだった。
字余り句跨りだが、特に下の句のエロさ全開か。「君なりホテル」と読ませる短歌の律。まあ「」の固有名詞は普通一つの律なのだが。
これも字余り句跨りのテクニックの歌だった。
以上三首は『サラダ記念日』から連作「八月の朝」なのだが、その前に「野球ゲーム」という連作を投稿して、こちらは角川短歌賞で次席だったのを「句跨り」「句割れ」を多用したという。そして「我」を「吾(あ)」に替えたことでリズムカルな口語短歌になったという(俵万智は口語と文語の併用だが、文語もわかりやすい、啄木→寺山修司→俵万智の系譜だという)
結語は「二・五の補助動詞+体言止め」の活用で詠嘆調の「かな」ではなく現代的になっているという。最後の五音はキーワードになる。そのリズムは現代短歌の転換点となった。
『「俵万智」という大きな物語』ユキノ進
俵万智の短歌は啄木から寺山修司の系譜というのは自己プロデュース力ということだった。『サラダ記念日』のあとがきで主演・脚本・監督・俵万智と書かれているように、俵万智が提示する女子はオヤジ受けが良く、けっこう古風だったりする(待つ女の和歌のスタイル)。その後『チョコレート革命』では不倫を歌い、『プーさんの鼻』ではシングルマザーとして女性の生き方を問う。「父の不在」「片親」は俵万智のテーマであるがゆえにオヤジ殺しの短歌なのかもしれない。万智ちゃんとイメージ付けながら実は教師であってモラルを問うのだ。そして、何よりもポジティブに表現することで、その明るさを全面に出す。俵万智がバズる秘密は、そのへんにあるのかもしれない。特に女子の模範になりながらおじさん連中に好かれる(旧態としたモラルがある)というところが一番のポイントかもしれない。
『短歌研究2024年4月号』の「作品季評(第130回・前半)=穂村弘(コーディネーター)/高良真実/青松輝」。
佐佐木定綱「生物歌」
佐佐木一族はよくわからんな。有名なのは父親(佐佐木幸綱)か?その次男ということだけど、よく知らなかった。名前だけ見ると父と混同してしまう。
「リグオダナタ・ハースティ」は古代の節足動物。こういうのは面白いのか?検索すればすぐに出てくるが、古生物も古典も変わらないということか?面倒な短歌で作者に興味あれば面白いのかもしれない。調べてもそれほど驚きはないという意見に同意。這うがゴキブリ系の生物を想像してしまう。
連作短歌として「古生物図鑑」を出して強化しているという。メタ手法的というがそうなのか?
景はプロジェクション・マッピングみたいなんだけど「けろけろけっぴ」が昭和のど根性ガエルのようだという。これが古代生物だと当たり前すぎるのか?
リアルな光景がディストピア小説のようなファンタジー仕立てだという。
自己言及的な歌だという。むしろ歌の言葉は貧弱なイメージなのかな。
この鯨の歌はいいと思ったが、単なるパフォマンスに騒いでいる群衆の虚しさみたいな。
川島結圭子「夏夜」
初めての歌人。佐々木定綱と同世代だった。
こっちは現実の生物だが、植物連鎖というわりには頼りない希薄性のワンルームということか?
SF的だが面倒臭いということかな。流石に蚊は追い払うだろうと思うが。
これはちょっと面白い。
昔はそういうことがあったが最近は隣にも無関心になってしまった。まだコミュニケーションがある生活だと思ってしまう。
突然天皇の歌が最後を飾る。「夏夜」というお祭りというテーマだからなのか?一首目の口語短歌がいいという。見たままを歌にしているので不敬には当たらないとか。不敬とか考えるところが怖い。
「告げる」は口語ではなく文語であり、最近は口語文語交じり短歌が流行りだという。いや、俵万智からそういう時代なのだ。それはXとかLINEとかで使うような砕けた文章だという。体言止めや終止形以外の言葉を使うと文語っぽさが出るとか。完全口語とか最近の短歌はよくわからん。
睦月都歌集『Dance with the invisibilres』
文語で古風な感じか今どき灯油売りとかいるのか。井上陽水の「氷の世界」だな。陽水の歌のほうが斬新だ!
ジェンダーの歌集なのか?そういう視線で読んだほうがいいのだろうか?
スポーツセンターみたいな所なのか?これは口語短歌なのか?句読点と空白は印象的(見た目がいい)。
選評で猫が登場する歌が多いとか。この歌は普通だな。
象徴か。自分自身が落ちていったイメージなのか?
どういう人なんだ。ブルジョアなのか?親の遺産なのか?これだけではよくわからない歌だな。別れ話のような気もする。
ネガティブな気持ちだから別れてしまった朝なのか?
すごい字余りだな。まあ普通に散文と読めばいいのかも。
リフレイン句跨り。このへんはテクニックか?
その前に「われ」でここでは「わたし」という甘さ。これは高校時代かもしれない。
白のイメージか?「姉妹都市」というのも甘い感じだが。
小林麻美のショパンみたいな短歌だな。イメージがありきたり。
今だとレトロな短歌なのかな。そこにレズビアンの現代性みたいな。レズビアンを引くとただレトロなだけだな。そのレトロさもイメージとしてありきたりというか80年代バブルのCMみたいで。だから今受けるのかな。
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