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お隣の草花をマーキングする

早く海に行って夕日が観たいと思っていたのだが足の豆を潰して、靴も用意できてなかった。お盆過ぎかな。まだ余裕はあるな。

昨日は昼に映画を観てネットカフェ読書。昨日観た映画はナチスものだが、毎年のように公開されているけど悲劇的なものでもなく喜劇作品だった。悲劇ばかりだとまたかということになるので伝えていくのにもそういう作品が出てきたということなんだろう。まだ日本の戦争の喜劇的作品は昔はけっこう作られていたと思うが今はない(『拝啓天皇陛下様』とか『肉弾』とかあったが)。原爆の映画なんて、いまこそそういう喜劇映画を作るべきなんだと思う。喜劇=批評というような。カウント・ベイシーの原爆ジャケットにサインを求める長蛇の列とか『オッペンハイマー』に感動する日本人とか(これは無理か?ハリウッド側から抗議されたらひとたまりもない)。

『お隣さんはヒトラー?』はそれほど出来はいいと思わなかったが歴史を伝えていくことに工夫が見られる。

映画のあとにネットカフェで読書。「ポスト・コロニアル」関係の作品では、J・M・クッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代──辺境からの三つの〈自伝〉』。クッツェーは両親が「アフリカーナ」と呼ばれる白人支配層なのだが、イギリスの植民に対して抵抗運動とかするのだ。ただ少年はイギリス大好きっ子で、そうした視点での両親のこととか黒人の子供(奴隷の子)と遊んだ記憶とか学校教育のこととか多面的に少年時代が追想される。「少年時代」「青年時代」とノスタルジーな家族小説で読ませると思うのだが「サマータイム」で批評的になるかな。結構な大作だった(684p.)。

『『パターソン』を読む――ウィリアムズの長篇詩』は映画のイメージとはずいぶん違うんだ。映画はバス運転手の目を通しての日常性だったが、ウィリアムズは町医者の目を通しての「パターソン」という産業都市の移り変わりで、町医者であるウィリアムズと一緒なのだが「パターソン」という街を批評的に見ているというか精神分析医のような視線なのかな。それに感動したアレン・ギンズバーグは自分の方がもっと街を知っていると手紙を出すのだがアレン・ギンズバーグは母が精神を病んでいて、自身も精神病入院患者だったので、次第に対立していくのだと思う。だがギンズバーグとウィリアムズは双方とも影響し合う詩人だったのだ。ギンズバーグはそのあと戦争犯罪で精神病院に入れられたパウンドとも交流を持つのだが、それは反アメリカ的な精神からだった。ウィリアムズはアメリカの良い部分も悪い部分も受け入れている生活者(T型フォードに乗るような中産階級)だがギンズバーグはそれより底辺にいる人なのかな。バウンドと気が合うのは芸術が無償の贈与交換であるという立場からウィリアムズはそういう精神よりも資本主義的なのだろう。ただパウンドの精神性が歴史に繋がりそれはキリスト精神というようなヨーロッパ中心の精神性だった。

なかなか読書も思うように勧められずに昨日は『窯変 源氏物語』は読まないで、『光る源氏の物語』という大野晋と丸谷才一という権威の対談本を読んでいた。対談本なので、通常の学術書よりも気軽に読めて面白い。いろいろな定説を知ることが出来る。まあ、だいたい知っていることなのだが、この本は『源氏物語』の入門書としてはお勧めかな。読書メーターでお勧めされたのだった。

「百人一音」は一応完成。「百人一首」と「百人一句」と「百人一詩」は途上。「百人一首」は和歌だけじゃなく短歌にも広げていいな、そうしないと完成しない。「百人一詩」は出し尽くしたので、これからまた集めていくことに。「百人一句」が一番可能性としては出来そうなのだが、「百人一読」を考えてしまった。過去に叩き台もあるし。

こんなことで残りの人生費やしていいのだろうか?あと俳句協会神奈川支部から入会のお知らせが来た。強制的に入らされるというか、神奈川支部で面倒を見るということなんだろう。俳句大会が九月末日にあるんだ。二句投句千円だった。参加した方がいいかな?二句はいつでも出来るのだが千円がな。映画観たと思えばいいのか?

無職で好きなこと毎日やっているので幸せ者かもしれない。こうして保守化していくのかな。今日の一句。

お隣の草花をマーキングする 宿仮

句跨りだな。

お隣の 草花をマー キングする

「犬蓼」の句よりも落ちるか?今日の一首。

人付き合いが苦手な独居老人
盗撮が趣味だと言えず
一句

長すぎるな。

俳諧し独居老人は盗撮す
隣の歌人の芝は青い

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