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シン・短歌レッス51

今日の一句

昨日の麦秋はこんな状態。中央に線のように走るヤグルマギクがいいアクセントだと思ったがスマホではよく写らなかった。ヤグルマギクというのは鯉のぼりに立てる風車に似ているから名付けたそうだ。

やはり帰化植物で雑草扱いだった。ノヴァーリスの『青い花』だということだった(積読だったはず)。

矢車や無断闖入麦の秋

登蓮法師の和歌


塚本邦雄『花月五百年』

藤袴ねざめの床にかをりけり夢路ばかりと思ひつれども  登蓮

塚本邦雄『花月五百年』

塚本邦雄『花月五百年』。塚本邦雄が「本歌取り」ついて述べているところ。歌人の登蓮ではなく判者としての藤原俊成の判詞として、「本歌取り」を論じている。

この登蓮の本歌は漢詩で「夢に蘭を得たること見侍りしか。されば直幹、詩にも夢絶燕姫暁枕薫と作れり」

その詩の「蘭」を「藤袴」に変えたのだそうだが、塚本邦雄は藤原俊成の知識の閲覧(蘊蓄)であり、六條家(当時の主流家元)と論争したとある。その判詞を受け継いだのが定家であり、歌本来の良さよりも知識としての開陳が歌の意味を損なうということになりかねないとする。本歌を開陳する批評性は、権威を持ってきて己の才能をひけらかすものであるという塚本流の裏返しの批評であった。それでも彼は言葉がすべて借り物の姿であり、芸術とはそういうものだという理念から和歌を捉えている。

塚本邦雄短歌5首

難解歌とされる塚本邦雄の短歌の続き。島内景二『塚本邦雄』。

死に死に死に死にてをはりの明るまむ青鱚(あをきす)の胎(はら)てのひらに透(す)く
われがもつとも悪(にく)むものわれ 鹽壺の匙があぢさゐ色に腐れる
殺戮の果てし野にとり遺されオルガンがひとり奏でる雅歌を
聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫
帝王のかく閑かなる怒りもて割(さ)く新月の香のたちばなを

空海の「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し」を本歌とする本歌取り。前句よりも後句の「青鱚(あをきす)の胎(はら)てのひらに透(す)く」が実景として美の礼賛のようもある。塚本邦雄は早熟の天才たち(例えば三島由紀夫)をなどを念頭に置いていたのだというが予言的な歌となったのかもしれない。
車屋長吉に『鹽壺の匙』という小説があった。「鹽壺」は「塩壺」。つまり自虐的に「塩を塗る」というようなことか。匙が紫陽花色という。つまり自虐性も紫陽花色のように盛れということらしい。ここでは藤原定家も源氏物語もフィクションだから虚構を賛美しているという。「われ」が作者と同一ということはないという当たり前のことの短歌だった(塚本邦雄や寺山修司らの前衛短歌が出てくるまでは「われ」は作者だと解釈するのが当然だった)。わかりにくい。「殺戮の果てし野」とは戦後の日本だという。オルガンは自動オルガンなのか?それとも作者の幻聴なのか?「雅歌」というのが天皇の和歌のようだから、そういう情景なのだ。そのオルガンが一人という擬人化を塚本邦雄作者本人として(その前の歌で作者と作中主体は違うと言っておきながら)、特別視しているが、それは幻視だろう。ここで特別視して教祖のように仰いではいけないと思う。雅歌など滅んでいるのだから。ギュスタブ・モローの「雅歌」(『聖書』の一文でもあった)という絵の本歌取りのようだ。つまりここでの「雅歌」はキリスト教の歌ということになるではないか?それが塚本邦雄のはずはないだろう。
美術館は略奪のシンボルとして聖母像ばかり集めた美術館を破壊するテロ行為の歌だが、無論それはフィクションである。ただ31文字で世界の見方を変えているのだ。それは芸術が変化を求めるからである。
たちばなは香る木で桜と対称的に植えられた宮中があるようだった。そういう帝王の住まいなのだが、新月は暗闇。これは後鳥羽院の歌だという。このモチーフにした小説が『菊帝悲歌 小説後鳥羽院』だという。

尾崎放哉の句

今日も渡辺利夫『放哉と山頭火』を読んでいるのだが、尾崎放哉はエリートの弱さみたいなものがあるな。真面目すぎるような。だからへんな新興宗教のような団体に飛び込んで後から後悔するのだ。

ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人人

放哉が西田天香の一燈園(宗教組織ではない新興宗教のような共同体)にハマって後悔する句は、オウム真理教にハマったが事件後にひっそりと帰っていく人を連想する。逆の意味でけっこうこの句は好きかもしれない。人間臭い。

つくづく淋しい我が影よ動かしてみる

これは又吉直樹が感心していたと思った。ちょっとお笑いの要素があるな。これも好きかもしれない。

落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事

どうしようもない自棄っぱち感が漂ってくる放哉の句だ。もっと孤高の俳人だと思っていたが人間臭い。この句はなんかいい。「落葉がへらへら」という表現が「ちびまる子」の爺さんのような絵が浮かんでくる。

荻原井泉水(せいせんすい)の自由律俳句は、

芸術の制作は常に内部から迸らなければならない。外在的に牽引せらるべきものではない。生命ということは内的である。………生命は自ら萌え出でて繁って行く力であるが故に、他の何物にも代えられない自己が唯一正真のものがある故に、内的というのである。

放哉は井泉水の自由律に共鳴していく。

にくい顔思ひ出し石ころをける

結局一燈園で雑務に追われてから、別の浄土真宗の寺で働くことになり、そこで時間に余裕が出来て句作に励むのであった。

師匠である井泉水に自分のダメさを訴えたくて会うのだが、酒を飲みすぎて住職の妾とも飲んでしまい酔っ払って妾に送ってもらったら住職に追い出されたとか。ほんと駄目な人だった。そしてどこにも帰る場所がなく一燈園に戻るのである。情けない。またどこか寺を紹介してくれないかとなって須磨寺に行くのだった。ラッキーな人生かな。

一日物いわず蝶の影さす
自らをののしり尽きずあふむけに寝る

放哉に取って自由律俳句を作れればいいというところまで行けたのが良かったんだな。そして寺を紹介してくれた友に一生の弟子にしてくれと手紙を書く。どこまでも自立できない人なんだな。そこが魅力なのかもしれない。

たつた一人になり切つて夕空
なぎさふりかへる我が足跡もなく

一人と詠うが寺の世話になっているのである。次の句はそのものだと思うが。そして貧苦の寺で死んでいくことを望むのである。それまでの自由律俳句の世界。

淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る

そのあと須磨寺の内紛に巻き込まれそこにも居られず出ることになり、保険会社の部下の家に行ったが奥さんに相手にされず警察を呼ばれてしまう。「くそぼうず」と言った子供の頭を殴ってしまうのだ。そして、また一燈園にもどっていく。

映画短歌

『書かれた顔』


化粧する鏡の君に
問いかける
素顔がいいとルージュを塗つた

鏡の君が作中主体と重なっていくんですね。


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