芸術はその場所を異世界と変えていく
『書かれた顔 4Kレストア版』(1995/日本/スイス)監督ダニエル・シュミット 出演坂東玉三郎/ 武原はん/ 杉村春子/ 大野一雄/ 蔦清小松朝じ
昨日部屋で『坂東玉三郎「東京蜃気楼」』を観たのだが、今日はヨーロッパの映画監督でもありオペラの舞台監督であるダニエル・シュミットだったので、日本人監督との違いが観られて面白かった。
まず日本人監督のドキュメンタリーは純粋に玉三郎の魅力について探っていくインタビュー番組だと思うのだがダニエル・シュミットは玉三郎だけではなく、芸者や女優、さらに舞踏家の大野一雄の舞踏まで紹介していて、全体的に外国人監督の日本の芸能的興味が舞台芸術として歌舞伎の玉三郎中心に描かれていた。
ダニエル・シュミットを検索してみたら同時期に大野一雄のドキュメンタリーも撮っていたのだ。その二人の表現者の違いが面白い。
玉三郎は歌舞伎役者として、女形という男がイメージする女性を演じているのだが、それは女になることではない。芸術としてのイメージの問題。例えばラストの演目『鷺娘』では「鷺」という鳥に憑依した踊子の踊りである。それは実際に鷺そのものを演じるのではなく、イメージとして鷺の特徴を捉えた羽だったり仕草だったり、その過程で歌舞伎特有の早変わりという衣装替えがあるのだ。そのときに白から赤の着物で娘に変身する。そこがアップテンポで盛り上がる祝のような踊りなのだが、その後に精魂尽きて鷺に戻り絶命してゆく。その姿の過程が芸術作品として、雪の降る静から娘の動へ、さらに再び静というドラマチックな展開を見せるのである。それは歌舞伎の女形という伝統芸術の様式であり、球三郎は監督演出の「湾岸トワイライト」というような即興劇をやるのだが、明治の文明開化のような設定だけど昭和な感じの住宅街では違和感を感じ得ない。玉三郎も「トワイライト」の意味を生娘が芸者に身売りするというようなイメージだったようで、インタビューでは突然笑いだしてしまった。それは監督との意図が違ったのだろうと思う。そのような演出を伴ったドキュメンタリーであるのだ。
その中で玉三郎が言っていたのは舞台という限られた空間で一瞬に場を変えられる表現をしたいというような。それは大野一雄を舞踏がまさにそれで、湾岸という現代の空間をグロテスクな異世界に変えてしまう舞踏なのだ。それは通常に考えられる美の観念とは違うような。
例えば玉三郎が歌舞伎の中での演目で女形を演じる空間は異空間だが予めセットされた歌舞伎という舞台なのである。そこでの玉三郎の踊りと演出の見事さ。しかし、街中と屋形船で演じられた即興劇は演出の意図が見えてしまい玉三郎もイメージしたような女形(新宿二丁目より高級な感じはするが)でそれほどいいとは思わなかった。無論、玉三郎ファンが見たら身のこなしや仕草にたまらない魅力があるのだと思う。それが美だとすると、大野一雄の舞踏はもっと自然的な野蛮さをともなった舞踏という異世界であり背景の街ごと一気に世紀末にしてしまうような雰囲気があるのだ。
また杉浦春子のインタビューでは女形は男から見た女を演じるのでその魅力の捉え方が違うので敵わないという。そして杉浦春子自身が映画界で美人スターというのではなしに女を演じてきた。それは女が見つめた女の姿かもしれない。現在の映画ではむしろ杉浦春子のような演技が必要とされるのだろう。オバサンの色気というような。
またベテランと言っても老女という芸者の舞や三味線は、若い娘にはない色気というものがあるのだ。それは芸者というものが男たちの商談の中で一瞬で場を盛り上げ、世界を変えていく異化作用があるのだ。それが芸術や芸事の根本だと思った。大野一雄は大道芸の素養からそうした野外の舞台で魅せる舞踏を知っているのだろう。玉三郎の歌舞伎はやはり舞台芸術の一環なのだ。
このドキュメンタリーを見て、たとえば芸術家が世界を変えたいと思うか世界に残したいと思うかで違ってくるのだろう。それが玉三郎と大野一雄の違いだ。玉三郎は伝統芸術の中で美を追求する。その書かれた顔というのは女形ということなのだが、身体表現としては歌舞伎の世界で女形として鍛錬されたものであること。そして何より歌舞伎の異世界も十分に堪能出来た映画であることは感動的だった。とくに「鷺娘」の踊りは、イェーツが能で「鷹姫」をケルト神話に演出したのが分かる気がした。この世のものとは思えない幻想の世界なのだ。