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椋鳥も適当な距離で梅雨晴間

椋鳥。椋鳥は集団でまとまるから冬の季語で、この時期はある程度距離を置いて止まっているのか。昨日も暑かったが、青春18きっぷの発売日だったので昼から外に出た。明け方が一番涼しいのでそれから寝ると昼前に目覚めてげんなりするのだった。夏って毎年こんな感じだったっけ?

椋鳥も適当な距離で梅雨晴間  宿仮

夏の楽しみといえば旅行ぐらいしかないのであって、暑くても出かけるもんである。去年は遠野に行ったけど遠野も暑かったな。その前は四国お遍路だったが、これも暑くて死にそうなった。それは最初のお遍路だったのか。記憶が定かではない。春休みも行っているので、豪雨の時で途中できっぷを無くして戻ってきたときだったか?雨との相談もあるからな。行く時期と場所選びは慎重にしたほうがいいか?とりあえず海辺がいいと思っているのだが、瀬戸内海の方かな。人混みは嫌いだから人が少なく風光明媚で涼しいところって日本にあるのか?

とにかくへばっている。夜中が一番活動できるのだが、扇風機の恋人になってしまって、動けない。「シン・短歌レッスン」は『王朝百首』だがこの糞暑いのに王朝もなにもないよな。夏の涼しく過ごすというか暑くても恋をしていれば楽しいのかもしれない。そういうときの疑似恋愛の曲が聴きたくなる。

ちょっとPVの選択を間違えたか?だるそうに歌っている。

真夏に聴くプレイリスト作りたくなるな。過去に作ってなかった?後で作ろう。

で、昨日は自販機の前は並んでいたので、結局買わずに、まだ余裕があると思ってネットカフェに。いきなりコーラをひっくり返してしまい、汗拭きタオルが雑巾になってしまった。運が悪いことに昨日はシャワー室がメンテとかで仕えず、それでも汗は引き、コーラもどうにか乾いた頃には寒くなって外に出たのだった。夕方から映画。『ザ・ムーン』という韓国の月面着陸の映画。『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』というハリウッドのアポロ計画はガセだったという映画が公開されるのだが、その二匹目の泥鰌みたいな映画か?と思ったがけっこう面白かった。このへんが韓国映画なんだよな。

そういえばエンディング曲が「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」でエヴァみたいで良かった。

読書。『舞踏会へ向かう三人の農夫 下』ポストモダンとはなんだったのだろうか?モダニズムの批評ということで二十世紀の発明されたカメラという決定的瞬間の装置。そのに映し出される三人の農夫だ。しかし彼らの行く先の決定的瞬間は描かれていない。彼らがどこに向かおうとしていたのか?実際五月の村祭なのかもしれなかった。しかしドイツは戦争に向かっていたのだ。

原爆記念館のカラー写真で女子学生がおしゃれして制服の下に、戦時では考えられない美しい衣服を着ていたという。写真家はその写真を撮って原爆記念館に晒す。彼女の先には悲惨な死が待ち受けていたのだが、日常はおしゃべりや色とりどりの夢に取り巻かれていたのだ。写真はそれを語ることはないのだが、その写真から読み取ることは出来る。

リチャード・パワーズのこの小説が語るのもそのようなものかもしれない。写真家は死までの過程を映し出す。その先に進む道は最短距離で死に結びつくものではない。彼らの生きた時代を想像すること。そこにベンヤミンやらの写真論を幻惑的に語りながら、おしゃべりとして決定的瞬間までの生が語られるのだ。それは19cのモダニズムの時代、プルーストが描いた『失われた時を求めて』なのかもしれなかった。

印象的だったのは『失われた時を求めて』の登場人物であるブロックが1980年代に登場して、幻惑的なおしゃべりをする。そしてサラ・ベルナールというモデルとなった舞台俳優の美の幻想について、プルーストは語っていたのではないの?つまり19cのモダニズムの焼き直しが批評という形で小説化されたのがポスト・モダンの小説なのだ。その最大の作家はピンチョンかもしれなかった。彼はそうした時代のエントロピーの死を描いたのである。

ポスト・モダンがモダニズムの仮装舞踏会であり、その間にフォードを中心とした機械文明の社会があった。そして、それは戦争を生み出していくアメリカの姿として、デトロイト美術館のベルトコンベアーで作業する人々の壁画としてメキシコの共産主義の作家リベラによって描かれた。ポスト・モダンというサイードが読み解くパレスチナの写真のように、三人の農夫はオリエンタリズムとして現代のアメリカ人によって読み解かれていくのだ。

それはフォードが戦争時に戦争終結の船を出したエピソードと共に語られる。その船は「愚か者の船」という20cの若者が歌うモチーフとなって、どこに進むかわからないアメリカの産業文化を語っていくのだった。フォードの目的は計り知れないが、そのことによって戦争も解決されたのも事実であるが、その後の兵器産業として君臨していくのもフォードの夢であったのか?20世紀の夢という不確かな夢へ向かっていく三人の農夫たち。そのシステムを作っていくフォードの自動車産業。そして写真家は自動車ではなく自転車でその過程である写真を撮ったのである。「二十世紀の写真」として。

このぐらい読めばいいのか。ポストモダンの小説は徒労なところがあるのは物語よりもその裏に隠されたシステムの方に感心があるのだった。その批評小説なのである。今日の一首。

月へ行く
愚か者の船
エンディング
「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」
歌姫うたふ


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