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「チェヴェングール」というディストピア社会は日本社会そのものだった。

『チェヴェングール』アンドレイ・プラトーノフ  (翻訳) 工藤順, 石井優貴

愛と憂鬱の〈ユートピア〉
ロシア文学の肥沃な森に残された最後の傑作、本邦初訳。

革命後に生の意味を問いつづける孤高の魂。「翻訳不可能」といわれた20世紀小説の最高峰のひとつが、〈ロシア的憂愁(タスカー)〉の霧の中からついに全貌を現した!――沼野恭子

わたしもプラトーノフのようになれたら――ピエル・パオロ・パゾリーニ(映画監督・詩人)

20世紀には、重要な作家が3人いた――ベケット、カフカ、そしてプラトーノフだ――スラヴォイ・ジジェク(哲学者)

死への興味が嵩じて湖に自ら身を投げだした父親の息子アレクサンドル(サーシャ)は、ドヴァーノフ夫妻に引き取られて生活するようになり、やがて、ボリシェヴィキとして、彼の同伴者であり親友のコピョンキンとともに共産主義を探して県域を放浪し、共産主義が完成した理想郷チェヴェングールを見出す――。
「もっとも謎めいて、もっとも正統的でないロシア作家」とも称されるプラトーノフの代表作にして生前に完成した唯一の長篇小説。ロシア文学の肥沃な森に残された最後の傑作、本邦初訳。
「『チェヴェングール』は、[……]世界史的な規模のインパクトをもった第一次世界大戦やロシア革命を念頭におきながら、現実を逆転させたような事柄を描いた挿話に溢れている。それらを通して〈あるいはそうであったかもしれないロシア革命〉が描き出されている。」(本書「解説」より)
◎解説=古川哲「あるいはそうであったかもしれないロシア革命」
◎付録=P・P・パゾリーニ「アンドレイ・プラトーノフの『チェヴェングール』」+関連地図+主な登場人物

去年の翻訳大賞だった。プラトーノフは過去にも読んでいたが(『土台穴』『ジャン』)これはそんなプラトーノフがソ連時代に出版されなかった長編小説で世界的に注目を浴びたのだ。プラトーノフはけっして反体制作家ではないと思うのだが、現実を透視する目が現代社会にもつながっているのだった。

第一部は詩的でさえあるような叙情的文章。岩波文庫『ジャン』で描かれたような民族的抒情性に富んだ詩的な文章であり、イタリアの作家パゾリーニが絶賛しているのも第一部で描かれたような人間対自然の中に機械というシステムが登場してくる。

第二部でドン・キホーテ的な諧謔性。主人公アレクサンドルの友人であるコピョンキンは共産主義の理想を描いてローザ・ルクセンブルクを尊敬し、「プロレタリアの力」という愛馬に乗って、アレクサンドルと革命時代を戦うのだ。しかし、その性格は過去の英雄主義的であり、現実のソ連では遅れてきた人物と言わなければならない。「ドン・キホーテ」が騎士道にロマンを求めるように革命にロマンを求める。それは例えば「少年ジャンプ」的友情・勝利・努力(友情・革命・ロマン)というものかもしれない。翻訳者は「少年ジャンプ」の会話を参考にしたというが、まさにそんな人物たちなのだ。

第三部で反ユートピア世界が示される。ザチャーミン『われら』が対比されているが、大江健三郎の『同時代ゲーム』的世界のようにも感じられた。解説では『燃え上がる緑の木』を上げている。その世界は現実社会に近いという問題提起が過去の作品ではなく現代の作品としてプラトーノフ『チェヴェングール』を捉えているのだ。それはロシアの問題でもなかった。登場人物のひとりの呼び名が「日本人」というのだが、まさに日本的世界の小説なのかと思うほど。それはカフカが描いたシステムの不条理さを突きつける。例えば女性はブルジョア的だからと追放したのちに、再生産という女性を求める矛盾。これは農村部の保守的な地域の嫁さん探しと似ているというかほとんどそういうことだった。つまりそこで必要とされる女性は子供を生むための妻か働く男を癒す母親代わりということになってくるのだ。

共産主義の理想の為に、現在の苦痛を労働ということに替えて、しかしその労働は無意味な労働が実に多いのだ。例えば会議のための会議というような。最初に木で機械を作る育ての父の話が出てくるのだが、その部分が芸術性となっていく第一部なのに、第三部では無用な労働となってしまう。それは何故かという問い。多分個人がなさすぎるのだろう。それが日本人とあだ名される「チェヴェングール」村の革命委員長であるチェプールヌイなのだ。彼は自身では判断できずに絶えず党からの司令を待つがその解釈は勝手なものでその市民の意見に委ねるのだが、それが全体主義的になりもっとも賢い人物も女性不足から嫁集めとして外に派遣されたりするのだった。マルクスの知識も机上の理論として理解しようとはしない。それは生活のために労働するという、その中に自由や快楽は求めないのだ。ただ労働のための革命があり、それ以外の人はブルジョアとして追放していくのだった。

第三部で主人公アレクサンドルの元恋人が出てきて、アレクサンドルの分身とも言えるシモン(キリスト教では異教
的イメージ)がモスクワの調査団としてやってきて(カフカ的作品を感じさる)アレクサンドルと対話するのがとてもスリリングで面白い。彼はゴーゴリ『外套』のイメージもある。彷徨える魂を求める幽霊的存在で、彼(シモン)がアレクサンドルの理想を観察するのだが、そこにはかつての恋人(ソフィア)の思い出も消し去っているのだった。

シモンはソフィアを愛しているのだが、そのソフィアが愛していたのがアレクサンドルで三角関係になっている。そこにホモフォビア的なアレクサンドルの性格があると思う。

それは育ての親であり師匠であるザハール・パーヴロヴィッチに対する尊敬やドン・キホーテ的なコピョンキンに対する友愛、さらに共産主義を求める理念よりも現実を優先するチェプールヌイの同質性が恋人であるソフィアを遠ざけているのだ。

村の娯楽がアレクサンドルが出したソフィアへの手紙(届かない手紙というポー的な今日的テーマもあるかもしれない)を勝手に開封して、回し読みしているという。これなんか個人の秘密が保てない監視社会の喜劇的側面だろう。そうしたスキャンダル・ジャーナリズムを求めるあり方は我々の現実社会に似ていると思うのだ。アレクサンドルが全体主義社会の中に染まっていくあり方は、反ユートピア(『チェヴェングール』)そのものなのだ。

あと「ごぼう」が生い茂る土地というのもこだわりを感じる。ロシアでは「ごぼう」は木の根っこだと言って食べないそうである。「ごぼう」なら日本だったら食料になるのにと思ったのだが、葉を繁るままにさせておくというのは、何か暗示させているのだろうか?こんなにも「ごぼう」が出てくる小説もなかった。

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