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喜劇的なものについての分析

『笑い』ベルクソン,アンリ/【訳】増田 靖彦(光文社古典新訳文庫)

「笑い」を引き起こす「おかしさ」はどこから生まれるのだろうか。ベルクソンは形や動きのおかしさから、情況や言葉、そして性格のおかしさへと、喜劇のさまざまな場面や台詞を引きながら考察を進める。ベルクソンの主要著作群のなかで異彩を放つ、「ベルクソン哲学の可能性が最も豊饒に秘められた」、独創性あふれる思考の営み。ベルクソンの著作のなかでもっとも版を重ねたロングセラーを分かりやすい訳文と詳細な解説で読み解く

「このように、『笑い』は、それ自体が自己完結した体裁をもっており、他の著作との類縁が判然としない著作である。ベルクソンの著作群のなかで異彩を放つ『笑い』の立ち位置、その孤高ぶり(!)は、この小著に対する著者自身の慎み深い態度とも相俟って、否応なしに際立っている」(解説より)

エドガー・アラン・ポーの初期作品はコメディ的な笑える作品もあり、ホラーと喜劇はわりと近い位置にあるのかと「笑い」に興味を持った。喜劇的な作品は『ドン・キホーテ』や昨日読み終わったプラトーノフ『チェヴェングール』とか好きな方かもしれない。笑いが嫌いな人はいないと思うが、その一方で笑いは対立をも生み出す。『チェヴェングール』はシニカルなコメディだったが。

ベルグソン『笑い』は喜劇の分析でアリストテレス『悲劇』を踏まえたもののように思える。アリストテレスも「喜劇」について述べたかもしれないといわれているがその論説が不明なのだった。それでベルグソンが「喜劇」の分析に挑戦したのかもしれない。

「喜劇」が「悲劇」と大きく違うのは感情的にならないという点だろうか。ベルグソンは「喜劇」の要素を3つあげて1、人間的なもの。2、心を動かされないもの(感情的にならない)。3、部外者であり傍観者であるもの。

そして喜劇は集団的な共同体の中で機械的な硬直性を弛緩させるものとしての潤滑油みたいなものだとする。人は臨機応援に事柄にあたるが、それが機械的な硬直したものになると息苦しいものになる。そこで緊張の緩みを与えるのだ。それは対応に失敗する人を笑いに変えることで、共同体内の世界に緊張の柔和をもたらすのだが、生き過ぎると他者を傷つける行為となる。その共同体内の信頼関係があることが前提となるのだが、通常性の逸脱は社会全体に取って不条理性でもあるのはカフカ的な喜劇性に見られるようなことかもしれない。他者が自己の自由(逸脱)を疎外していく笑いは個人と全体を考えるとあるかもしれない。

それは笑いが理性に対して夢のような創造性に関わるからである。その部分をフロイトは無意識的なものとして不気味なるものとするのだった。それはまさにポーの作品に出てくるホラー(恐怖的な意味でテラーとか言っていた)的感情だろうか?

また喜劇は繰り返しやひっくり返しという状況のおかしさがある。繰り返しは言葉のリズムを伴う音楽的なもので、詩に繋がる部分があるのかもしれない。日本では俳諧的面白さはそうしたリズム的なものがあるようだ。

言葉による笑いは、文化としてパロディ、ユーモア、アイロニーなどがあるがその国の文化によって他国では理解出来ないものがあるかと思う(例えばアメリカ人のスタンダップコメディとかアメリカ文化が大きく影響している)。音楽的効果と場所の違いは笑いが創造的な芸術文化として成り立つ要素でもある。

笑いが共同体内の人々に快楽を与える一方で対象者には苦痛を与えるかもしれない。そこに道徳や倫理性が生まれるのだが、対象者は共同体から孤立しやすいのでそれらは恐怖となるのであろう。

喜劇は固有性ではなくその特異性が非人称的になるのだという。それは共同体に取っては脅威となることであり、リセットを促すことでもあるのだ。違和な自分を発見することは、他者に共振させていくことでもあり、そこに笑いが必要なこともある。個人が反省的に自覚される場合は己の分離が共同体内と一体化していくことにもなるのだ。その揺れが生命の揺れなのかもしれない。ベルグソンは笑いの中に差異を見出す。



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