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復讐(復習)戦

昨日の失敗は(これを書いている時点では一昨日なのだが)取り戻せる。そう思って再び町田の図書館へ。今度は返却本、図書カードの確認OKである。無職の時間は曜日を気にしなければ昨日も今日も同じ時間が流れているのである。だから日記にしても、一昨日のことを昨日として書けばタイムリープ出来るのだ。そして一昨日の失敗はすでに経験しているので修復も出来る。

そう思ったが身体的記憶は、どうにもならん。足が痛くて上がらないから蹴躓く。この自分の身体が自分の身体でないような状態はなんというのだろう。イメージ通り歩けないのだ。

それでもなんとか図書館に着いて坪内稔典『俳句的人間・短歌的人間』を返却。これは面白い本だったなと今頃気がつく。そうだ短歌についても書いてあったのだ。この時はまだ俳句メインで短歌は関係ないと思っていたが。

俳句を作るのと短歌を作るのはどう違うのか。短歌は俳句より七七のところで長いというのがある。そこに自己の感情を打ち込めばいいんじゃねえ?と思ったがどうも上手く作れない。五七五で情景描写、七七で感情発露。ただやっぱ短歌的リズムは長く感じてしまうのだ。なんだろうこのぐだぐだ感は?

思えば短歌の印象が良くなかった。歌会始めで天皇の一緒に歌う。それって天皇制肯定じゃね、と思うのである。万葉から続いている強固とした天皇制をこの民主主義の時代に認めてしまっていいの?となる。そう言えば金井美恵子も河野多恵子を批判していたではないか?これは凄い文章だったな。

金井美恵子が何故批判していたか。それが制度に対する短歌界の屈服なのだ。戦時の反省がなってない。あの頃は大政翼賛的な短歌や俳句は批判されたではないか?俳句でも桑原武夫の「第二芸術論」を意識してない奴は駄目なのだ。それが俳句が芸術として生き残る道である。

そしてそういう短歌に対してパロディ的作品を書いたのが深沢七郎『風流夢譚』なのである。これは出版社によって発禁にさせられたのだ。この民主主義の時代に。そんなことがあっていいのか?あったのである。それを知ったのは桐山襲『パルチザン伝説』も同じ憂き目にあっているからだ。一度会ったことはニ度繰り返される。そして、なによりそれが日本の民主主義の長いものに巻かれろの姿なのである。

深沢七郎『風流夢譚』は電子書籍で読めるようになっているから短歌を作る人はぜひとも読んでもらいたい。それこそ穂村弘『短歌という爆弾』なのだ。短歌ではないが小説(散文)という爆弾か?

そういうシステムの影響は俺には関係ないと思っている人はテリー・イーグルトン『文学を何か』を読むのが宜しい。

そして「短歌とは何か」と考えることが必要なのだと思う。そんな本に出会えたと思ったのが木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』だった。ただ木下龍也もこの消費社会に染まってしまったこともあるのだが、短歌入門書としては素晴らしい出来だと思う。

まだ歌人にもなってない人間が偉そうに言うけど。この本によれば一句作ったらもう立派な歌人なのだ。むしろそう名乗るべきだという。そう言えば一句は短歌のオンライン歌会に参加したときに作ったな。あのとき三句は作ったはずだ。だからすでに歌人だった。オンライン句会の短歌が残っていた。本人はまったく忘れしまったが。なんせ最初に作った短歌なのでその時はまだ歌人としての意識が低かった。それに歌名ではなく俳号で登録していた。その三句がこちらである。

いっせいに躑躅の赤が目を刺した街に彷徨い帰れない君(4点)
ゴールデンウィーク気分でうかれ街無職の君は引きこもり部屋(3点)
鯉のぼり集団遊泳公園にママ友の噂立ち消えぬ(1点)

まだ短歌のイメージが掴めていなく俳句の延長としての短歌だった。それで昨日図書館でニ冊の短歌本を借りてきたのだ。一冊はすでに感想を書いた木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』で、もう一冊は過去に読んだ(これは穂村弘への興味であって短歌に対する興味ではなかったかもしれない。戯れとしての短歌だな)

穂村弘『短歌という爆弾』

いささか熱くなりすぎたようである。整理すればすでに今日から歌人でもあった。ただまだ歌名が決まらない。紫苑が一応候補なのだが、すでに水原紫苑がいた。彼女は伝統的な短歌を作るはっきり言って敵側である。短歌テロリストを名乗るからには甘い気持ちは無用なのかとも思うが読まれたいというのも本音なのである。

短歌に対する復讐戦の話はこのぐらい。

筋が見えないな。そうだ。テリー・イーグルトン『文学を何か』はいい本である。創作のためにもジェラール・ジュネットの「物語ディスクール論」が紹介されている。この本はAmazonで七千円もするのだ。

図書館で借りればいいのだが、テリー・イーグルトン『文学を何か』の「物語ディスクール論」だけで十分かなとも思う。それを今日中にまとめておきたい。

それで歌人ならば今日の短歌である。まだそこまではいきなり出来なかった。準備編として、歌集をニ冊用意すること。一冊は『寺山修司歌集』があった。もう一冊を誰にするか?読まれる為には現代短歌の人がいいと思うのだがまだ決まらない。

月の俳句も作らなければと思うのだった。今日は三日月で一句だった。「二兎を追う者は一兎をも得ず」そういう諺もあるが、マルチの時代なのである。ただこのマルチ時代に生き残れるかは心配である。すでに詩人としてもスタートしていた。


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