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学校一の秀才お嬢さんはいかに漢な男に惚れてしまったか?

『人と作品 与謝野晶子』福田 清人【編】/浜名 弘子【著】

目次
第1編 与謝野晶子の生涯(老舗の娘;はたちの心;おごりの春;転生;ただひとり)
第2編 作品と解説(みだれ髪;恋衣;舞姫;夏より秋へ;明るみへ ほか)

目次

第1編 与謝野晶子の生涯

二部構成で第一編が晶子の伝記、第二編が作品論でわかりやすい。鳳晶子は『みだれ髪』で女性の身体的欲求を感情のままに歌っていた。当時はそれが不道徳なこととされ、バッシングされたのだ。しかし後年は、与謝野晶子がそうした不道徳な女性運動を批判し、女性教育者となり、保守化していく。その思想的流れも汲み取ることが出来る。

なによりも与謝野晶子が与謝野鉄幹を愛していたのは、『明星』廃刊後、鉄幹がダメ男に成り下がったのに、彼を見捨てなかったこと。それは晶子の短歌の道を切り開いたのが鉄幹であったからだ。お嬢さんとして古典を愛した晶子が観念の世界ではなく身体の世界を開かれた強い影響力があったのだろう。

例えばヤンキーに学校一の秀才のお嬢さんが惹かれてしまうということは、ありそうな気がする。鉄幹は「漢」の男として晶子の前に現れた。そして、彼らの関係は道徳的に見れば不道徳にも関わらず、愛にとってみれば正統なことだったのだ。それが彼らの芸術だった。

後年晶子は『みだれ髪』の未熟さを手直しする。それは鉄幹がダメ男になり、晶子は大家族を一人で養っていかねばならず、ある程度の世間と妥協せざる得なかった。さらに晶子の古典志向が保守化を進めていく。この頃の歌の浪漫主義的な古典風な短歌は言葉が大きくなるのだった。高橋源一郎『ぼくらの戦争なんだぜ』で言葉が大きくなる人は注意せよということだった。

ただ晶子の場合は、生活のためということもあったのだろう。そして鉄幹を再び「漢」の男にするには日本の軍国主義的思想に傾いて行ったのかもしれない。どこまでも良き妻でありたいと願った与謝野晶子なのである。

与謝野晶子作品

その子二十櫛にながるる黒髪の
おごりの春のうつくしきかな  『みだれ髪』
やは肌のあつき血汐にふれも見で
さびしからずや道を説く君  『みだれ髪』
清水へ祇園をよぎる桜月夜
こよひ逢ふ人みなうつくしき  『みだれ髪』
経はにがし春のゆふべを奥の院の
二十五菩薩歌うけたまへ 『みだれ髪』
御相いとどしたしみやすきをなつかしき
若葉木立の中の盧遮那仏  『みだれ髪』
ほととぎす治承寿水のおん国母
三十にして経よます寺  『恋衣』
遠つあふみ大河ながるる国なかば
菜の花さきぬ富士をあなたに  『舞姫』
わが宿の春はあけぼの紫の
糸のやうなるをちかたの川  『恋衣』
わが雛はみな鳥となり飛び去んぬ
うつろの籠のさびしきかなや 与謝野鉄幹
自刃もてわれに迫りしけはしさの
消えゆく人をあはれとおもふ  与謝野晶子
海超えて君さびしくも遊ぶらん
追わるるごとく逃るるごとく  与謝野晶子
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す
君も雛罌粟(こくりこ)われも雛罌粟(こくりこ)  与謝野晶子
一人にて負へる宇宙の重さより
にじむ涙のここちこそすれ
君を見し夢の話も自らに  『寝園』

浜名弘子『人と作品 与謝野晶子』

与謝野晶子『みだれ髪』は女性の髪を象徴的に詠んだのが一つのスタイルになっている。「髪」や「黒髪」から連想される日本の美意識か?「その子」は晶子自身であり、自分のことを「うつくしきかな」と言ってしまうナイーブさがある。ただそのナイーブさも「おごりの春」と分析しているのだ。この歌は初句切れの気持ちよさもあるという。二句目以降は「の」を重ねてリズムを整えている。
あまりにも有名な与謝野晶子の代表歌とも言える歌。上句を晶子の身体性に対する男への呼びかけ。与謝野晶子は藤村『若菜集』や新体詩の影響を受けていて、「やわ肌」も薄田泣菫の浪漫派的詩からの影響であるという。男が使うと浪漫派だが、女である晶子が使うと身体的な発露となるのだ。そこで道徳的観念から批判を受けた。
「清水」「祇園」という情緒は古典的であり、晶子はそれを提示することで浪漫風を装うのである。「桜月夜」は造語だというが晶子の浪漫主義が古典文学から来ているのは、注意しておく必要があるようだ。
「経」より「歌」だという。「奥の院」は出家した尼僧とも取れるし宮廷の奥とも取れる。晶子の歌風は未熟なナルシズムだとライバルであるアララギ派の斎藤茂吉は指摘するのだが、本人は古典に造詣があるのだ。だから『源氏物語』を訳したり出来る。
「盧遮那仏」は大日如来で鎌倉の大仏を詠んだ歌でも川端康成『山の音』で大仏は阿弥陀なのだと批判されている。ただ川端康成のジェンダー論では男と女と性差を区別するが、そういう性差を超えたところに仏はいるので、これは川端康成の勇み足だと思う。ただ晶子はそういうジェンダー面から道徳観の批判を浴びたのだ。
『平家物語』から「大原御幸」の建礼門院を歌ったもの。晶子は自慢の「黒髪」を剃り落とした建礼門院を歌っているのだ。そして「国母」となる。
晶子の歌が大きくなってくる。それは浪漫主義的な古典風だと言うのだが、この歌もライバルであるアララギ派である伊藤左千夫に「おふみ(近江)」から富士の菜の花が見えるもんかと「写実」が成ってないと批判されていた。晶子の歌は象徴だというのだが。
「春はあけぼの」は無論、清少納言である。
「明星」廃刊の時の歌だが、鉄幹と晶子の違いが伺えて興味深い。鉄幹はその後ダメ男に成り下がり、晶子は大家族の家計を一人で切り盛りしなければならなかった。この頃は悲惨な歌も結構詠んでいるのだが、『源氏物語』の翻訳の話が来たのもこの頃で、そこから晶子は『源氏物語』鉄幹は『万葉集』を講義するようにまでなる。その後の文化学院開校するまでに至るのだ。
与謝野鉄幹がヨーロッパ旅行に出たのは、晶子から逃げたのだと思ったという。それは晶子は鉄幹のために屏風に晶子の歌を書いたものを売り出して渡欧資金を稼いだのだが、その金は実家から借りたというので腹を立てたらしい。しかしヨーロッパの鉄幹から君も来るようにと言われると居ても立ってもいられず行ってしまうのが晶子なのである。典型的な直情型なのだ。
パリではおしどり夫婦のように歓迎されたらしい。ここに与謝野鉄幹との深い繋がりを感じる。ダメ男だけど母性愛のような晶子の愛情。そして鉄幹との関係が修復されると今度は日本に残してきた子供たちのことを思いだすのだ。
最後のは短歌ではないのだが、与謝野晶子はもともと短歌にこだわっていたのではなく新体詩の影響を受けながら歌を詠んでいた。そのときに出会ったのが与謝野鉄幹で彼の影響は非常に大きかった。そしてその成果が『みだれ髪』として結実するのだ。そうした鉄幹と築いてきた世界の中で喪失観は大きかった。「宇宙の重さより」というぐらいだったのだ。


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