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十字路に立つブランショは、ブルース歌手だった

『プルースト/バタイユ/ブランショ―十字路のエクリチュール』ロジェ ラポルト, 山本 光久 (翻訳)

書くこと(エクリチュール)の無為なる行為についての三人。プルースト、バタイユ、ブランショ。彼らの無為なる行為(書くこと)について、神がいない世界での祈りのような行為。十字路とは?その思考を解明するより、生きなければならないとするブランショの言葉。ブルースの曲を思い出す。

「クロスロード・ブルース」


プルースト

プルーストは『失われた時を求めて』の語り手が無為なる行為を送る日々を回想する。それは作家になる為なのだが、回想している間は作家になっていない。見せかけのスノッブな世界はある部分、本物の世界を求める行為だ。教会や古典絵画に見られる敬虔な祈りの世界と対峙するスノッブな否定神学の世界なのだ。

語り手は作家になりたいのだけど、なかなか書けない人。書き始める時が『失われた時が求めて』が終わった時なのだ。完全にネタバレですね。

バタイユ

バタイユは図書館司書で、エクスタシーについての本(『マダム・エドワルダ』『眼球譚』『青空』)で有名だが、その本は正確な言葉で書かれているという。彼はそれ以外に膨大な手記を残しており、その一部にすぎないが、エクスタシーの本が有名になった。実際にそういう関係の娼婦がいたのかもしれない。ただ彼にとっては、エクスタシーは自己否定を呼び覚ますものだった。

その内的体験が至高性を見出す。霊的交通。ヘーゲルの神学論のアンチとして一神教の精神ではない他者(ディオニソス)の精神と出会う、ニーチェへの擁護。至高性は神なき世界の理念のような。無神論なのだがある部分否定神学という神学。ブランショとの交友。

ブランショ

マラルメの沈黙について。それはランボーの絶筆によるものではなく、詩を書く行為によって沈黙してしまう声(「エクリチュール」は本来そういう意味だという)について、在るものの不在性、マラルメの詩はそうしたものへの永遠の対話なのだという。

消去すること。絶対の書物(神の世界の書物)は失われている世界で、芸術とは何か?を問いただすこと。それが受苦(パッション)となるのだ。エクリチュールが声の痕跡となって、死の世界を呼び寄せるセイレーンの歌を書き留める不可能性。その世界は彼のものではない。カフカ「猟師グラックス」の物語のように。それはブランショの謎の男トマを先取りする。

「彼は現に死んでいたのだが、同時に死という現実から拒絶されていた」。

神の断片化という裂け目から生まれ出るディオニソスに出会うこと。「一者」によって支配される神学論は、間違っているとする否定神学論は、芸術を神に捧げるものから中和(中性化)するものとして、あらゆる神の暴力性から逃れる断片化された生に他ならないとする。完成されない断片の中に可能性を見出す。その差異がエクリチュールという書くことの行為である。




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