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アレテーは、(普遍的な)愛じゃないか?

『メノン―徳(アレテー)について』プラトン , (翻訳) 渡辺 邦夫(光文社古典新訳文庫)

20歳の青年メノンをソクラテスが挑発! 「徳(アレテー)は教えられるものでしょうか?」メノンの問いに対し、ソクラテスは「徳とは何か?」と切り返す。そして「徳」を定義する試みから知識と信念、学問の方法、魂、善をめぐって議論は進んでいく――従来あまり重視されなかったことばのニュアンスを細かく読みとり、対話のやりとりと内容の微妙な関係を鮮明に浮かびあがらせた意欲的新訳。プラトン対話篇の最高の入門書。

「100分 de 名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』」で徳(アレテー)がもう一つ理解出来なかったので、その元となるプラトンの著作を読んでみた。100分 de 名著 第4回「友愛」で、日本の社会状況で会社関係の友人は利害関係だけだし、ネットは快楽関係で、徳で結ばれる友人関係なんて出来そうもない。だから一人でも生きていけるという生き方が主流になる。

で、プラトン『メノン―徳(アレテー)について 』を読んだわけだが、アリストテレスよりはソクラテス(プラトン)の方が理にかなっているような気がする。ソクラテスも否定しまくるんだけど、そこで知が徳に繋がると導き出される。それはわりと納得出来た。知の欲望というか、人が知りたいという欲は自然に備わったものだろう。ただ想起説は怪しいかなとも思う。これが超越論的ということなのか?

プラトンの「想起説」には魂(プシュケー)があり心身二元論なのだが、現代人であるわれわれは魂というものを信じていない。しかし求めるものがあるのは、その欲求が空っぽのものを満たす為にあるのではないか?それが受容として身体で魂を欲しているというのは、空腹になれば食料を求めるように、魂を求めているというわけだった。

それは倒錯しているのだと思うが、ネオプラトニズムの否定神学の考えはそういうものかもしれない。神を否定する前に神をイメージして、アプリオ的に神を描いてしまう。それは魂についても同じで、魂を否定しているが空っぽの精神に満たされるものを求めている。それが魂と言われればそうなのかもしれない。心身二元論ではないと思うが。

知を求めることが自然に欲望されること。空っぽの虚無感から逃れたいと思う気持ち。満たしたいと思う愛でもいいけど。そういうものを魂と言われればそうなのかもしれない。それが想起説。

アレテーが卓越性とか優越性という方がわかりやすいか。理想像を求めて知を欲する。それはあらゆる哲学者が求めた魂というものなのかもしれない。徳だと道徳を思い浮かべて違う感じだ。どんどん泥沼哲学にハマる。今はそういう時期。

ただ、中庸となるとちょっと判断出来ない。過剰を求めてしまうのかもしれない。だから怖いのか?このへんだと愛に通じることなのかもしれない。

寂聴さんに近づいた?



関連書籍

『NHK 100分de名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』 2022年 5月 」山本 芳久 (NHKテキスト)


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